『峠のお茶会』
恋々たるこの想い4
あふれた想いをどうしたいのだろう。この、たった一人だけに向けられた想いを・・。
涼介に空き時間が出来たのは、拓海が留守電にメッセージを残してからちょうど十日後だった。
長かった実験も一段落つき、レポートの提出も済んだ涼介はとにかく秋名湖へ向かった。拓海の都合は全然分からなかったけれど、とにかく近くまで行かずにはいられなかった。
たとえ逢えなくても、それでも近くまで行こうと思った。行かなくてはいけないと思っていた。
どんな些細な事でも、今の自分が拓海に対して出来る事は何でもやろう。自分が、行動を起こそう。
それは、自己満足に過ぎないかもしれないけれど、涼介の償いの気持ち。
目の前に広がる湖をしばし見つめ、涼介は拓海の携帯電話へ連絡を入れた。
拓海の携帯電話が鳴ったのは、ちょうど家へと向かう帰り道だった。
そこは家よりも秋名湖に近い場所で、拓海は急いで進路を変えた。
連絡が来た事が、すごくうれしかった。毎日毎日、この連絡を待っていた。電話が鳴ると急いで出るようにしていた。とにかく、ずっと待ち続けていた連絡だった。
拓海はすごく緊張している自分を感じていた。心臓がものすごい速さでその緊張を全身に伝えている。
自分でも良く分からない、言葉になんか絶対出来ないそんな想いを抱えながら、拓海はただひたすらに歩いた。
秋名湖の駐車場で、拓海はすぐに見慣れた車を見つけた。その車へと向かう足がどうしても震えてしまう。
これから涼介に逢う事をうれしいと思う。けれど同時に怖いという感情があふれてくる。その相反する気持ちの両方が、今の拓海には全てのように思えた。
車の中で座って待っている事が出来なくて涼介はその車にもたれかかるように湖を見つめていた。
自分の表情が、今きっと情けないであろう事は容易に想像出来た。けれど今、表情を隠す事も作る事も出来ない。
これから拓海に逢う事を、怖いと思っていた。今までに感じた事のない、それはとてつもない恐怖感だった。
そんな気持ちの中、ふと人の気配を感じ涼介は視線だけを動かした。車を隔てたその先に久し振りに見るその姿を見つけ、いろいろな感情が一瞬にして襲ってきた。
「藤原・・」
涼介は車越しにその名を呼んだ。それ以上は、まだ何も言えなかった。
目の前にいるのは、自分が一番大切に想うその人だった。それなのに傷付けてしまった人。だから、もう二度と逢えないかもしれないと思っていた人。
何も変わっていないように思えた。だから何もなかったようにすら思える。けれどそれは錯覚。自分のいいような解釈でしかない。事実は、もう変えられないものだから。
「急に呼び出して、すまなかった」
涼介は拓海の方へ歩み寄りながら、そうつぶやいた。まるで社交辞令のような言葉だけれど、でも気持ちは本当だから。
「いえ、ちょうど、時間空いてましたから。それにオレも待ってたし・・」
少し俯くように答えた拓海がその歩みと止めたのを見た涼介は、自分もそこで止まった。話をするには少し距離が開いている。涼介はその間を見つめ、拓海に気付かれないように小さくため息を落とした。
決して遠いわけではない。けれど今までにはなかったその距離。近いとは言えない距離。分かっていたはずの、自分と拓海との距離。
それを今、涼介は痛感していた。この距離を作ったのは、誰でもない、自分なのだと。
「今更、遅いとは思うが・・この前は本当にすまなかった」
逢ったら、言わなければいけないと思っていた言葉。今更なのは分かっている。だけどあの時言えなかった言葉。
「オレは、そんな言葉を聞きたいわけじゃない・・」
涼介の言葉を聞いた拓海は、考えるより先にそう言っていた。違う、そうじゃない、と心の中で叫んでいるのが分かった。涼介と話をしたいのはそんな事じゃない、もっと別な事だと・・。
「藤原・・」
涼介から自分に返されたその呼び名で、拓海の心の叫びは更に強くなった。拓海自身ですら分からない、心の奥で渦巻く感情。
「違う、違う。涼介さん、違うんだ」
顔を上げ、涼介を見ればなんだかすごく遠く感じて。逢えなかったこれまでの時間よりも、今、目の前に居るはずの涼介が遠く感じられる。
拓海は自分が涼介に対し、何を言いたいのか自分でも良く分からなかった。ただ心が痛くて、すごく痛くて、拓海はとにかく必死だった。
「涼介さんっ」
拓海はその名を呼んで、目の前の涼介を見つめた。
「涼介さん・・」
もう一度その名を呼んで、拓海は自分の頬に涙が伝ったのを感じた。その涙は止めどなく溢れてきて、もう止められなかった。
伝えたいはずの気持ちが自分でも分からない。ただ、違うという事だけが先に出てその先に進めない。何かを必死に掴もうと思えば思うほど、その何かが分からなくなる。
「藤原・・すまなかった・・。泣かないでくれ・・」
耳に届いた涼介の声はなんだか困っているような気がした。それでも拓海の心の中に優しく入り込んできて安心感を与えてくれる。
でもまだ拓海の心は満たされなかった。まだ何かが足りない。拓海は、ただただ半分無意識のように首を横に振っていた。
「りょう、すけ、さぁん」
泣いて、その名を呼んで、ものすごく情けないと拓海は思った。それでも満たされない何かがあって、心がずっと違うと叫んでいる。
でも何が違うのかとか、それが自分でも分からなくて、拓海は涙でぼやけた涼介の事をずっと見つめていた。
謝って欲しいわけではなくて、それ以上の何かが、あるはずなのだ。
一番、聞きたい言葉が・・。
「藤原・・」
どうする事も出来なくて涼介は名前を呼んだ。
そこまで拓海を追い詰めたのが自分だという、悔やんでも悔やみきれない思いが込み上げてくる。
この前は出来なかった事を、今こそしなければいけないのかもしれない・・。
涼介はもう一歩、拓海との距離を縮めるように傍に歩み寄った。
「りょ、・・け・・さ・・」
しゃくり上げた拓海の言葉が、自分の名前を呼ぼうとしていると涼介には分かった。拓海のその声は、あの日の事を涼介に思い出させた。
必死に何かを訴えるようなその声と、何かを求めるようなその瞳。その訴えと求めに、今ここで答えなくてはいけない。
それはあの日、足りなかったもの。
自分にその資格があるかといえば今更ないと思うけれど、だけど伝えなくてはいけない言葉。本当は、ずっと伝えたかった言葉。
涼介は無言でゆっくりと拓海に手を伸ばした。
「拓海」
それはあの日、涼介が最後に言った言葉。その想いを込めて、一度だけ拓海の名字ではなく名前を呼んだ。
その想いを込め、涼介は拓海の名前をそっとささやいた。そして同時に涙を拭うように拓海の頬を両手で包み込んだ。
「涼介さん、りょうすけさん・・」
潤んだ瞳の拓海に名前を呼ばれ、涼介は胸の奥の方に痛みを感じた。傷付けてしまったのだ。あの日だけではなく、あの日から今日までのこの長い間に。
涼介は堪らなくなって拓海をその腕の中に抱きしめた。
「拓海・・。好き、だったんだ」
だから・・。
本当は一番に言いたかった言葉。だけど、言えなかった、言うのが怖かった言葉。
言って、けれど怖いと思う気持ちは消えない。拓海からの反応が、何よりも怖い。それに対する覚悟はもう出来ているけれど。
「涼介さん・・」
小さくつぶやくような声を聞き、涼介はもう一度覚悟を決めるかのようにぎゅっと目をつぶった。
「藤原・・」
言いながら、なんとなく離し難いその腕をそっと解いた。
これ以上触れていたら同じ過ちを繰り返すだけだから。もう、それだけはしたくないから。
今なら、まだ手を離す事が、出来る。
「もう、遅いですか?」
抱きしめられ、そして涼介の気持ちを聞けたと思ったとたん離れてしまったその腕と元に戻った呼び名が悲しくて、拓海は未だ止まらない涙をそのままに顔を上げた。
ばらばらだった何かがぴったりとはまってひとつの形になったと思ったのは気のせいなのだろうか。本当に、もう遅いのだろうか。
「オレ、気付くの遅くて、だけど、聞けてやっぱりうれしくて、さっきまで違うって思ってたのに、それもどっか行ったし・・。オレ、何言ってんだろう・・」
拓海はとにかく必死だった。
このまま終わってしまうのも、遅かったことを後悔するのも今はしたくなくて。だけどその気持ちを言葉にしようと思えば思うほどうまく言えなくて。
「もう、遅いですか?もう・・涼介さん、ダメですか?」
あふれてくる涙を必死に止めようとこすりながら、けれど止められなくて涙で顔がぐしゃぐしゃになるだけだった。
「藤原、遅いって・・」
聞こえてくる涼介の声は少し困った感じで、本当にどうしたらいいのか分からなくなる。
「過去形なんですか?今は、オレの事・・」
言いながら、拓海は自分の中に何か足りないものを感じていた。
さっき涼介に対して、何が足りないと思ったのだろう。そして、どうしてそれは満たされただろう。
「それは・・」
真っ直ぐと、見上げれば涼介が自分を見つめている。
ああ、そうか。まだだったんだ。始めようと、ここから始めようと思ったのは自分なのに。
「オレも・・」
離れてしまった涼介の腕の中へ、拓海はゆっくりとしがみつくように顔をうずめた。
それまで伝えたれなかった言葉も、伝えて欲しかった言葉も、簡単なものだったのに。
「藤原・・?」
頭の上から少しびっくりするような涼介の声が聞こえて、拓海はゆっくりと顔を上げた。
相変わらず涙は止まらなくて、でもその理由はさっきとは違うものだ。
「オレ、涼介さんの事・・・・」
言いかけて、だけど言葉はそこで止まってしまった。涼介に真っ直ぐ見つめられている事が、身近に感じる事がうれしくて。
想いがあふれてくる。ずっと伝えたかったその想い。今やっと、あなたに・・。
「・・好き、です・・」
それは小さな声だったけれど、拓海の大きな想いだった。