『峠のお茶会』
恋々たるこの想い3
一体いつが始まりだったのだろう。オレ達は、一体いつからその想いを抱えていたのだろう。
思い立ったが吉日。拓海は意を決して涼介の携帯に電話をかける事を決めた。
拓海にとって、このままの状態でいる事はどうしても耐えられなかった。
まだ何も始まっていないから。だからこのまま終わらせる事なんか出来ない。
何かが始まって、そしてその途中で起こった出来事ならいろいろな解決方法がある。その先に進む事も、そのまま踵を返す事も。
だけど、そのどの方法もとる事が出来ない。出来なくて、そしてそのままうやむやになってしまうのは嫌だ。
自分の想いに気付いたから。自分の涼介への気持ちに気付いたから。
だからまだ、このまま終わらせる事は出来ない。
そして、始まっていないのならば始めればいいと拓海は思った。自分から始めてみようと思った。良い結果のみが待っているわけではないけれど、それは始まってみないと分からない。
ぎゅっと握り締めた携帯電話を見つめ、拓海は大きく息を吐いた。
「見てたって、何も始まんないよな・・」
ひとつ、またひとつ。ボタンを押す度にそれは緊張から決意へと変わる。そして、その決意は拓海の想いでもあった。
最後のボタンを押し、目をつぶってゆっくりと耳元へと近付けた。
拓海のその耳は、けれど一コールも聞かずに留守電の事務的なメッセージを聞く事になった。
張り詰めていたものが、音を立てて切れるような感覚を拓海は感じていた。
けれど、このまま切ってしまっては意味がない。
ここが始まりだから。ここが、全ての始まりになるはずだから。
拓海はその機械音の後に一言メッセージを残し、静かに電話を切った。
実験の合間の休憩時間。涼介は切りっぱなしだった携帯電話の電源を入れた。
最近、電源を切っている事の方が多かった。休憩中でさえ、その電源を入れる事はあまりしていなかった。
忙しいから。そんな暇はないから。自分の時間が欲しいから。いろいろな理由を付けて、だけどそれはただの言い訳に過ぎない。だから電源を切っていても留守電の機能は働いている。こうやって、一日に一回は電源を入れている。
自分でも矛盾していると思っている。それを分かっていても、どうしようも出来ない。
後悔と、それでもあふれてくる想いと諦めと。いろいろな感情に捕えられ涼介は自分をうまく取り戻せていなかった。
全てから逃げてしまおうか、何もかも、なかった事にしてしまおうか。
このまま先に進む事は出来ないのだから。もう終わってしまったのだから。これ以上どうにもならないのだから。
でも、それでも、想う事だけは止まらなくて感情が先走り、そして取り残される。
手の中の携帯電話を見つめ、そして指は自然に拓海の携帯番号を押している。
何も考えなくても押せる。目をつぶってでも押せる。けれど、いつだって通話ボタンだけは押せなかった。
「押してどうするつもりだ・・」
このままではいけない事だってわかっている。ただ、決定的な最後が訪れるのを怖れている。
押した後に待つその結末を怖れているから、通話ボタンは押せない。
いつかこの想いに決着をつけなければいけない日が来る事も、その結末を受け入れなければいけない事も、分かっている事だけれど。
何もかも、自分が犯してしまった罪だから。償わなければいけないのは自分だから。これは当然の報いなのだ。
でも、あと少しだけ、もう少しだけ・・。そうやって先に延ばしてタイミングを逃している。
涼介はそのまま番号をみつめ、ため息と共に留守電の確認に行動を変えた。
『話をさせてください』
機械音のその後に残された、短いメッセージ。
その後の涼介の行動は早かった。何を考えるでもなく、ついさっき押す事の出来なかったその番号の通話ボタンを押していた。
涼介の耳に無機質な機械音が響く。このほんの少しの間すら、長く感じられる。
もう一度、拓海の声を聞けるとは思ってもいなかった。まして、拓海から連絡が来るとは考えられなかった。
思ってもみなかったそのメッセージは、涼介の中の何かに確実に触れた。
今じゃなければかけられない。この機会は逃してはいけない。決して、逃してはいけない。
残されたその声から、感情は読み取れなかったけれど。だからどんな思いでかけてきたのか分からないけれど。
この想いにけじめをつけなくてはいけないんだ。どういう結末が待っていようと、もう、このまま止まっていてはいけない。
進むべき道を、本当ならば自分が開かなくてはいけなかったのに・・。
涼介は、その連続的な機械音を祈るような思いで聞いていた。
小さな振動で拓海の意識は現実へと戻された。
目を開くとあたりは薄ぼんやりとしていて良く見えない。小さな振動音だけがやけに部屋に響いている。
ボーっとする頭の中で、それでも、仕事から帰ってきてそのまま倒れこむように寝てしまった事を拓海は思い出した。
時間を確認しようと時計に目を向けても、その針を見る事は出来なかった。
仕事とプロジェクトDのためにと持ち始めた、めったに鳴らない携帯電話の番号を知っているのはごく少数の人だけ。拓海はさっきから振動を伝えているその携帯電話をズボンのポケットから取り出した。
きっとイツキだろう・・。
寝起きではっきりとしない意識のまま、拓海はそのディスプレイに表示された名前を見た。
『涼介さん』
真っ暗な部屋の中に、その文字だけが浮かび上がった。
「涼介さん・・」
瞬間、拓海の意識は覚醒し通話ボタンを押したと同時にその名を呼んでいた。
心の準備なんか、全然出来ていなかった。確かに電話をかけたのは自分が先だったけれど、こんなに早くかかって来るなんて思ってもいなかった。
『藤、原・・?』
電話越しに、遠慮がちな涼介の声が聞こえた。途端、拓海は胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
久し振りに聞くその声に変わりはなくて、だけど何か、何かが違う気がして。
当たり前なのだ、あんな事があったその後なのだから。けれど、それが拓海には悲しくて仕方がなかった。
「久し振り、だな・・」
言って、涼介は自分がずいぶんと情けなく思えた。こんなセリフを言いたかった訳ではない。
ただ、つながったと同時に聞こえた拓海の声がなんだか必死な気がして急に言葉を失ってしまった。
とにかく何か言わないといけない。そう思えば思うほど声も言葉も出なくなってしまう。
『・・あの、急に電話してすみませんでした』
聞こえた拓海の言葉に涼介は自分の情けなさを改めて思い知った。
本当ならば自分が先に連絡をするべきだったのだ。それなのに、その連絡をくれた拓海に気を遣わせてしまっている。
でも、同時に少しだけうれしくも感じていた。もう一度、拓海と話が出来たというその事が、涼介には夢のように思えた。
こんな風に会話が出来るとは思っていなかったから。もう、声すら聞く事が出来ないと思っていたから。
涼介は自分の中の想いを整理するかのようにゆっくりと目を閉じた。
「いや、こっちこそ・・。今、大丈夫か?」
拓海が慣れない仕事で大変な事も、配達で朝が早い事も知っているから、涼介は電話をかけた時から時間が少し遅いとは思っていた。
『大丈夫です。涼介さんは大丈夫なんですか?』
同じような事を聞き返してくるのは、自分が忙しい事を知っているからだろう。
そんな風に気遣ってくれる拓海の優しさが、涼介にはすごくうれしかった。
自分にはそんな資格はないというのに。許されない事をしたというのに。
「実験の合間だからあまり時間がないんだが・・」
答えながら涼介は本当に申し訳なく思った。
「留守電を聞いて、すぐに連絡しないといけないと思ってな」
それは、今の涼介に出来る最初の償いだった。
「忙しいのに、わざわざすいません・・」
忙しい中、電話をかけてくれた事が拓海にとってはうれしい事だった。
急に電話をかけて、一言だけメッセージを残して。返ってくる涼介の反応が拓海には心配だった。
どんな返事が返ってくるか、それを怖いとすら思った。もしかしたら連絡なんて来ないかもしれない。そんな風にも思っていた。
『本当ならオレが連絡しなければいけない事だったんだ』
聞こえる涼介のその声に、拓海は涼介の想いを確実に感じていた。
大丈夫、まだ、大丈夫だ・・。
拓海にとってそれは、安心と、そして確信に近い感情だったのかもしれない。
電話越しだけれど、涼介のその声をまた聞く事が出来て拓海は安心していた。もう二度と聞く事が出来ないかもしれないと思うと不安だった。もしかしたら、自分のせいでもう聞けなくなってしまったかもしれないと、ずっとずっと不安に思っていた。
そんな風に思っていた涼介の声を聞けた事は、本当にうれしくて安心する事だった。
そして、噛み合わずずっと狂ったままだった何かが、今やっと少しずつ修正を始めているように思えた。
やり直す事は出来るかもしれない。でも本当に、それは出来るのだろうか・・。
「涼介さん・・」
思わず拓海はその名をつぶやいた。特に意味があったわけではないけれど、名前を呼ぶ事でその存在の確認を取りたかったのかもしれない。
そして。拓海の中にはあふれてくる想いがあった。
『すまない・・』
小さく、でもしっかりとした声で聞こえた涼介の言葉は、拓海の心にすっと染み込んできた。
涼介のした事を許したわけではないけど、涼介だけのせいにもしたくない。自分だって、ずっと気付かなかったのだから。それは涼介を苦しめる最大の原因だったのではないだろうか。
今からでも間に合うのならば、今からまた始めたい。過去には帰れないから。そして、もう元に戻る事が出来ないのは分かっているから。
それなら、あとは先に進むしか道はない。
拓海は涼介の事を想って、無意識にぎゅっと胸のあたりをつかんだ。
「時間が出来たら、逢ってくれるか?」
涼介にとって、その一言は勇気がいるものだった。電話で話すのと逢って話すのは全然違う。けれどこの電話もずっと話していられるわけじゃない。
本当に伝えたい言葉は、出来るならば直接逢って言いたい。謝罪の言葉も、そしてこの想いも。
時間がないのも、許されない事をしたのも自分なのに、ずいぶん勝手な言い草だな・・。
そんな思いの中、涼介は拓海の返事を目をつぶって待った。
『はい』
聞こえた拓海の声は小さくて、でも涼介にとっては充分だった。
「ありがとう・・」
それは本当に涼介の心からのセリフだった。
許される訳がないのは分かっている。そんな簡単な事ではないと分かっている。けれど、この想いにけじめをつけるチャンスを、拓海は与えてくれた。
そして拓海の事を想い、涼介は胸が痛くなるのを感じた。