TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

分かれ道の向こう側3

 信じがたいその状況を、それでも察してくれたらしい月森は少し戸惑うような表情を見せながらもその話をきちんと聞いてくれた。
 俺の知っている月森とあまりにも違い過ぎて調子が狂うが、今の俺にとってそんな月森の存在は悔しいけれど安心できるもので、唯一、頼れる存在でもあった。
 けれど、ここでの俺と月森の関係がまったく違う所為か、俺もそんな月森にどう接したらいいのか少し困っていた。
 俺に向ける言葉が、表情が、俺の知っている月森と全く違う。
 あの月森もこれくらい可愛げがあれば…そう思ってハッとする。
 それは、俺が知らないだけなのではないだろうか。俺が月森のことをちゃんと見ていないだけではないだろうか。
 俺と月森は、コンクールがなければきっと出逢うことも話すこともなかったと思う。逆に考えれば、コンクールがあったからこそ、俺たちは出逢ったのかもしれない。
 月森から聞いたこの世界の俺は音楽科に在籍していて、1年、2年と月森と同じクラスらしい。そして出席番号が前後ということもあり、普通にクラスメイトとして出逢ったようだった。
 苗字ではなく名前で呼んでいることを考えると、仲はいいのだと思う。
 ここは、似ているようでまったく異なる世界だ。
 俺にとって仲のいい月森は考えられない。ここの俺は、どんな風に月森と話をしているのだろうか。
「月森と、仲いいんだな…」
 思わずつぶやいた俺の言葉に、月森は少し不思議そうな表情を向けた。そしてその言葉の意味がわかったのか、今度は微笑みを向けてきた。
「最初は、どちらかといえば仲が悪いほうだったんだ。意見が合わないとか、考え方が違うとか。だから言い合いとにらみ合いは絶えなかった」
 月森の中では思い出になっているその二人の関係が、俺にとっては現在進行形だった。
「だが、違うからこそ、それがお互いにとって必要なものだと気付いた。そう、気付かせてくれた」
 確かに、月森の音楽は俺とは違い過ぎて相容れないが、素直に認めることができなくても、月森の音楽そのものを否定するわけではない。
 そういえば、さっきも同じようなことを考えながらピアノを弾いていたように思う。
 そして、もしも、と考えたときに、どうして月森とのことも考えたのだろうか。俺は、どうしてこんなにも月森のことが気になるのだろうか。
 鞄に教科書を戻し、逆にさっき詰め込んだ楽譜を取り出した。鞄は俺のものではないらしいが、楽譜はたぶん俺のものだ。
「そういえば、君もピアノを弾いているのだろう。なぜ音楽科に入らなかったんだ」
 取り出した楽譜を見て、月森は何の躊躇もなくそう聞いてきた。その無神経な言い方に俺はムッとして、思わずにらみつけた。
「すまない、それは俺が聞いていいことではなかったな」
 その視線を受けた月森は、ハッとしたような表情をしてすぐに謝ってきた。
 俺は、人の気持ちなんて考えなしに何でもずけずけと言ってくる月森しか知らない。俺の気持ちを察して謝ってくる月森なんて、知らない。
「いや…」
 俺はそんな月森に返す言葉が見つからなくて、うまく言い返せなくて言葉を濁す。
 誤魔化しを許さない、有無を言わせない、何もかもを暴こうとするかのような視線と表情は、この月森からは感じられない。
 こんな風におだやかに話をしたことがなかった俺にとって、目の前の月森はまったくの別人にも思えた。その所為だろうか、俺は逆に誤魔化したくないように思えて自然と言葉が出てきた。
「俺はずっと、人前でピアノを弾くことを止めていたんだ。ピアノ自体を止めたわけじゃなかったけど、もしコンクールがなかったら、学校でピアノを弾くことも、もう一度ピアノ漬けの毎日に戻ることも、きっとなかったと思う」
 開いたままだったピアノの鍵盤に指を乗せる。馴染んだ感触が指に伝わる。
「だから俺は普通科の生徒なんだ」
 本当は月森にそんなことを言うつもりなんてなかったのに、言ってしまえばそれはそれでなんだかすっきりした。
 やっぱりそれは、俺の知っている月森ではないからなのだろうか。それとも、月森にその事実を隠していることで負い目を感じたくないからだろうか。
「そうだったのか…。でも、どんなきっかけでも、君がピアノを弾いていることを、音楽を止めないでいてくれたことを俺は嬉しいと思う」
 音楽から離れてしまったことを、それを心のどこかで負い目に思っていることを、そんな俺の弱さを俺の知る月森は許さないような気がしていた。けれど今、目の前にいる月森は優しい言葉をかけてくれる。俺はそれに、甘えそうになる。
「でも、どんな理由があったにせよ、俺は音楽に、ピアノに対して真っ直ぐじゃなかったんだ」
 月森の音楽は本当に真っ直ぐで、まるで譜面をそのまま何の感情もなく弾いているように思えて、少しは自分らしさを出せと思うことはあったけれど、それでもその技術に裏付けされた真っ直ぐさが月森らしさで、月森の音楽なのだと今ならそんな風に思える。
 だから、月森の言葉に甘えてはいけないとそう思った。
「今は、真っ直ぐなんだろう?」
 そう聞いてくる月森に、俺は自分の胸に手を当てた。
 ずいぶんと遠回りをしてしまったように思う。俺は音楽から逃げていた自分を棚に上げて、ただ負けたくないと、そう思っていた。
「真っ直ぐで、ありたいと思う」
 勝ち負けなんて関係ない。ただ、音楽を、ピアノを、好きなんだと、胸を張って言えるようになりたい。
 そして、いい意味で、競い合っていかれたらと思う。
「やっぱり君も、梁太郎なのだな」
 月森にそう言われ、俺はどういう意味かと首をかしげた。
「いや…。そうだ、君のピアノを聴かせてもらえないだろうか」
 俺の疑問に対する答えは得られないまま、月森は思い付いたようにそう言ってきた。
 その言葉に、俺は触れたままだった鍵盤から思わず指を離した。
 今の俺がピアノからすっかり離れていたわけではないにしろ、音楽科に進んでいるここの俺と比べられるのは少しためらわれた。
「だめだろうか…」
 月森にはそんな俺の気持ちなどわからないのだろう。
 そんな月森に思わず腹を立てながら、けれどそれはお門違いだろうとも思っていた。
 ここの月森の前で弾きたくないのは、ここの俺に、負けたくないからだ。
 俺は、音楽科に進んだ俺のほうが巧いと思っている。だから、もしも、なんてことを考えたんだ。
「梁太郎…」
 聞こえたその呼び名に、俺は思わず月森をにらみつけていた。
「俺のピアノを聴いてどうするつもりだよ。お前に何の得もないだろう」
 それはただの言い訳だとわかっていて、けれど自分で言葉が止められない。
 そんな俺に月森は嫌な顔ひとつせず、逆に驚きの表情を向けてくる。
「君は俺の知る梁太郎ではないがでも別人でもなく、だから君の音を聴いてみたいと思った。ただ、それだけだ」
 少し考えるような月森の言葉に、やっぱり月森なんだと俺は思った。良くも悪くも音楽が興味の中心と判断材料になっている。
 それが無意識だとわかっていても、そういう偏ったとも思える言動がいつだって意味もなく俺をイライラさせた。
 今だってそうだ。
 けれど、言えば言い返してくるような喧嘩腰の高圧的なものではなく、きちんと俺に伝えようとするその言葉は、俺の知っている月森とやっぱり少し違う。
 だからいつもなら矢継ぎ早に出てくる次の文句の言葉がすぐに出てこない。
 調子が狂わされているような気がして、でもそんな会話はここの月森と俺の間ではいつものことなんだろうと思う。きっとここの俺は、調子を狂わされることなく会話を進めているはずだ。
 そう思った瞬間、何か心の奥の方に小さな痛みが走ったような気がした。
 俺は、ここの俺に、ここの月森に、そして二人の関係に嫉妬しているのか…?
 その痛みの理由に気付いて、そんな自分の感情が自分でもわからなくて、自分の気持ちなのに整理できなくて、思わずぎゅっと手を握り締めた。
 嫉妬ってなんだよ、なんでこんなにイライラするんだよ。
「君の気持ちも考えないで無理なことを言ってしまったようだ。すまない」
 黙ったままの俺に、月森は真っ直ぐな視線を向けてきた。その視線が、その言葉が、やっぱり心に痛い。
「いや…」
 俺たちはいつだってお互いを認めようとしていない。本当は認められないわけじゃない。ただ、素直に認めるにはお互いの音楽性が違い過ぎる。そして、コンクールという出会いが、更に拍車をかけている。
 そうではない出会いをしているここの月森には、俺の音楽はどう聞こえるのだろう。どう、響くのだろうか。
 俺は椅子を引いて座り、鍵盤へと指を戻し、ゆっくりと目をつぶって気持ちを落ち着けた。
「梁太郎?」
 月森が不思議そうにこちらに視線を向けたのを感じ、またゆっくりと目を開けた。
「何がいい?」
 いつだって揺るぎない真っ直ぐな視線が俺をみつめている。受ける印象が違っていても、それはやっぱり月森のものだ。
 そう思うと、さっきまで感じていたイライラが消えたような気がした。
「では、君の好きなショパンを…」
 そう言われ、俺は思わず苦笑いを隠せなかった。
 ここの“俺”も、好きなものは変わらないってことか。
 コンクールとはまた違う緊張感に包まれ、俺は小さく深呼吸をしてゆっくりと弾き始めた。
 余計なことを考えるのは止めた。解釈にとらわれず、今の俺が一番弾きやすい、一番弾きたい旋律を、それがどう思われようと、聴いている月森のために…。