TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

分かれ道の向こう側4

 曲が終わり、微かな音の余韻が練習室を包んだ。
 その余韻を感じながら俺は月森へと視線を動かすと、同じように俺を見ていたその視線とぶつかる。
 俺は何かを言われる前に口を開いた。
「感情だけで弾いていると言われたことがある。けど、これが俺の弾き方だ」
 自分では満足のいく演奏ができたと思う。少し前まで忘れかけていた音楽への情熱が、何で忘れていることができたんだろうかと思うほどにあふれてくるのを感じた。
「ここに居るはずの俺がどんな風に弾いているかは知らない。だから、できればその点については触れないでくれ」
 その言葉に月森は驚きの表情を向けた。
 俺が弾きたくないと思ったのは、負けたくないからじゃない。月森に「違う」と言われるのが怖かったんだ。
「それは…。そんな風に考えていたわけではなく、ただ本当に君のピアノを聴いてみたいと、そう思っただけなんだ。ありがとう、弾いてくれて」
 少し照れたように微笑まれて、俺も釣られるように笑った。
 いつの間にか、こんな風に月森と話をするのがなんでもなくなっている。その言葉を、素直に聞いて受け入れている自分がいる。
 けれど、俺が知っている月森ではないのだと気付いて、少し複雑な気持ちになる。そして、俺の知る月森なら今の演奏をどう評価しただろうかと、ふと思った。
 俺はさっきから、月森のことばかり考えている。
 いや、さっきどころじゃない。コンクールが終わってから、俺はずっと月森のことを考えていたんだ。
 そう気付いた途端、微笑んだ表情のまま真っ直ぐに見つめてくる視線が、急に俺の心臓を高鳴らせた。
 俺は、一体…。
「梁太郎?」
 その視線に耐えられなくて不自然にそらした俺に、月森の不思議そうな呼び声が聞こえる。その声が俺の心臓を更に高鳴らせ、まるで耳元で鳴っているかのように思えるほどに激しさを増していく。
 違う。この月森の視線も、この呼び名も、俺に向けられたものじゃない。そう思って、今度は何故か悲しくなった。
「梁太郎、どうした」
 覗きこむようにもう一度呼ばれたその名前が、高鳴っていた心臓を、まるで締め付けるかのような痛みに変える。
 俺は、きっと月森を…。
 だから“もしも”なんて思ったんだ。月森と同じ場所に立てなかった自分が悔しくて、こんなにも音楽が、ピアノが好きなのに、それなのに音楽から、ピアノから離れていた自分が悔しくて。
 文句を付けたくなるほどの技術を持った月森に、まったく正反対の考え方しかできない月森に、それでも誰から見ても音楽に対して真っ直ぐな月森に、俺は羨ましくなると同時に、強く惹かれていることを自覚する。
 胸の痛みを我慢するかのようにぎゅっと目をつぶった瞬間。
「うわっ」
 背後から突然の突風にあおられ、俺は驚いて目を開けた。けれど目の前に置かれた楽譜は微動だにしていない。
「どうした、土浦」
 そして聞こえたその声に、ハッとして顔を上げた。
 覗きこむような体勢はさっきと変わらないのに、何かが違うような、そして懐かしいような気がする。
「…月森、か?」
 今、目の前にいるのは、俺の知っている月森だ。
「あぁ…、戻ったのだな」
 その表情はまるで無表情で、その声からも感情は読み取れない。
 さっきあおられた風の所為だろう。俺はどうやらもとの世界に戻ってこられたようだ。
「そう、らしいな…」
 不自然にならないように月森から視線をそらし、俺は短く返事をした。
 自分の気持ちを自覚してしまった所為か、まともに月森の顔を見ることができない。
 なんでもなく月森と話が出来たと思ったのは、それが俺の知っている月森ではなかったからなのだと今更ながらに気付く。
「・・・・」
 何かをつぶやくような月森の声が聞こえたけれど、その言葉までは聞き取れなかった。
「なに?」
 思わず聞き返すと、月森は困ったような表情をしている。
「いや…」
 その表情の意味が分からなくて、思わず凝視してしまったことで月森と目が合う。
 高鳴るように、締め付けられるように、心臓が音を立てる。
「土浦、俺は……」
 何かを言いかけた月森は、言葉を捜すかのようにそのまま言いよどむ。
 俺は相槌さえ打てないほど鳴っている心臓の鼓動を聞きながら続く言葉を待った。
「いや、なんでもない」
 ほんの一瞬、まるで淋しそうな表情を見せて、月森は黙り込んでしまう。
 そしてそのまま沈黙が続く。
 静まり返った部屋とは逆に、月森にも聞こえてしまうのではないかと思うくらい俺の心臓の音だけがやけに響いている。
 その視線も沈黙も今の俺には耐えられなくて、何かをしようと置きっぱなしの楽譜に手を伸ばした。
 そして、さっきまで弾いていた自分の演奏を思い出す。
 入れ違いになっていたのであろうもう一人の俺も、ここでピアノを弾き、月森はそれを聴いたのだろうか。聴いたのならば、いったいどう思ったのだろうか。
 比べられたくないと思いながら、それでもやっぱり気になってしまうのは、それが月森だからなのだと気付く。
 それも、他の誰でもない、ついさっきまで話をしていた月森ではなく、今、目の前にいる月森だからこそ…。
 二人の沈黙を破ったのは下校を知らせるチャイムの音だった。その音が、まるで止まっていたかのような時間を流れさせた。
「もう、こんな時間か…」
 つぶやくような月森の声に、何故か少しほっとして俺は鞄を手に取った。開けると見慣れた教科書が入っている。
「土浦…」
 不意に呼ばれて、俺は楽譜をしまいながら振り返った。
「俺には君のような演奏はできないし、する必要もないと思う。けれど、君の演奏が嫌いなわけではないんだ。君のことも…嫌いなわけじゃない」
 あまりにも真っ直ぐなその言葉と真剣な視線に、俺は思わずぽかんと口を開けたまま瞬きを繰り返していた。
「じゃあ、また」
 動けないでいる俺のことなんてお構いなしに、月森は練習室を出ていく。
 ドアが閉まる音で、やっと俺の思考が動きだす。
「待っ…」
 何かを掴もうとするかのように伸ばされた手が、中途半端な高さで宙をかく。掴もうにも、もう月森の姿はここにはない。
「どういうことだよ、それ…」
 そして、月森の言葉の真意を図りかねて思わずつぶやいてみても、その答えは返ってこない。
 けれどその月森の言葉は、俺が月森に対して思っていることと全く同じなのだと気付く。
 月森のような演奏はできないし、する必要もない。だけど月森の演奏が嫌いなわけでもなく、月森のことも嫌いじゃない。
 むしろ俺は月森に惹かれている。それはつまり、好きってことなんじゃないか。
 そう思った瞬間、胸の奥のほうがチクリと痛んだ。
 さっき気付かされた自分の気持ちが、間違いでも錯覚でもないのだと思い知らされる。
 もしも、なんて考えなければよかった。自分が選ばなかった道の先なんか、知らなければよかった。
 俺が望まなければ、こんな気持ちに気付くこともなかったのに…。
『嫌いなわけじゃない』
 そう言った月森の声が、頭の中で繰り返す。真っ直ぐに見つめられていた視線が、俺を射抜く。
 月森も、俺と同じ気持ち…とか…? まさか…な。
 そんな都合のいい話はないだろうと思いながら、けれど本当のところは分からない。可能性がないわけじゃない。
 もしそうならば…。
 いや。もしもなんて、本当は考えても仕方がない。そうでも、そうでなくても、立ち止まったままの後悔はもうしたくない。
 音楽への情熱を取り戻したように、今度こそ自分が後悔しないように、どんなに遠回りしたって最後には笑っていられるように進んでいくしかない。
 そう思ったら、今までごちゃごちゃと考えていた自分がバカみたいに思えてきた。
 俺たちがどうやって出逢ったって、それをどういう関係に進めていくかは俺たち次第だ。
 相手はあの月森だけど、こんな想いを抱えたまま、何の行動も起こさないなんて俺らしくない。
「次に逢ったら…」
 いろいろ思い描きながら、俺はピアノの蓋を閉めて練習室を後にした。


 目の前にいくつもある分かれ道を
 選んできたのは俺自身だから
 別の道を選べばよかったと
 そう思うこともたくさんあるけれど
 この道を選んでよかったのだと
 そう思えるように進んでいこう



分かれ道の向こう側
2008.8.13
コルダ話23作目。
ちょっぴりパラレルワールドなお話に挑戦。
展開に少々無理があるのは目をつぶっていただきたく…。
予告してからだいぶ経ってのアップです^^;;