『音色のお茶会』
分かれ道の向こう側2
俺は一人、練習室でピアノを弾いていた。学校で弾くピアノは、家で弾くのとはまた違う緊張感で集中力が高くなる気がする。
コンクールが終わった今、わざわざ学校で弾く必要もないが、どうしても学校で弾きたい気分だった。
本当は講堂のピアノを弾きたかったけれど、良くも悪くも目立つ存在になってしまったこの状況では、音楽科の生徒が多い音楽室や講堂には行きづらかった。
各セレクションで弾いた曲を一通り復習う。
楽譜は頭に入っている。それでもあえて楽譜を置いて弾いた。
その譜面に書かれた音符の一つ一つを音に変えていく。
その音が音楽になる。
同じ楽譜を弾いても解釈は人それぞれで、何が正解で何が間違えというわけではない。簡単に考えれば、それはその人の好みの問題だ。
月森と俺はこの好みがまったく合わない。
でも、あいつが奏でる音や解釈が嫌いなわけではない。あいつを認めていないわけでもない。
たぶん、捉え方が正反対で、それ故に反発し合ってしまうのだと思う。
そして、その解釈すら無視しかねない、技術のみで弾いているかのような態度がどうしても気に入らない。
今は、そんな風にいがみ合う理由になるテーマも解釈も何も関係ない。誰かに聴かせるわけでも、聴いてもらうためでもない。ただ、好きなように、時には普段は弾かないような弾き方で、自由に弾いていたい気分だった。
けれど、月森ならどう弾くだろうと、そんな風にも考えてしまう。
編曲せずに弾く曲は長く、けれど演奏よりも考え事に集中してしまっていたらしく、気付けばあっという間に終わっていた。
最後の音の余韻を感じながらゆっくりと目をつぶった瞬間。
「うわっ」
背後から突然の突風にあおられ、楽譜がバラバラと派手な音を立てて宙に舞った。
開けた記憶のない窓を振り返ると、その記憶通り鍵すら開いていない窓が目に入る。その窓の向こうに見える木々の葉も、風に揺れている気配がない。
部屋にある空調も風が直接当たらないような場所に備え付けてあるから、演奏中に楽譜が飛ぶようなことはない。
けれど床のあちこちには楽譜が散らばっている。
不思議に思いながら、とりあえず床の楽譜を拾っていると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえ、俺は入り口のドアへと視線を向けた。
ガラスの向こうに濃グレーの制服のズボンが見えた。
「はい」
いったい誰が来たのだろうか。
俺はその返事でドアが開くのを、床から見上げるように見つめていた。
「梁太郎?」
そして呼ばれた名前に更に視線を上げる。
そこには少し微笑んだように、そして不思議そうな顔をした月森が立っていた。
けれど呼ばれたその名前と俺に向ける表情が月森とは思えなくて、一瞬、見間違えたかと思う。
「月森…?」
その名を声に出すと、月森は益々、不思議そうに俺を見つめてきた。
「梁太郎、なかなか来ないから探しにきた。けれどなぜ君が普通科の制服を着ているんだ」
月森に不思議そうにそう言われたが、その言葉の意味がわからなくて思わずにらむような視線を送った。
「なんでって言われても俺は普通科の生徒だ。お前も知ってるだろ。何、言ってるんだ」
まだ拾いきれていない楽譜を集めながら俺はそう答えたが、月森の言葉の前半を思い出してその手がまた止まった。
「その前に、俺を探しにって…」
制服への疑問はインパクトが強過ぎて、俺はその言葉をあまり気に留めていなかった。
「君こそ何を言っている。君は音楽科で俺と同じクラスだ。それに今日は正門前で待ち合わせをしていたのに時間になっても来ないから探しにきたんだ」
言われたその言葉があまりにも突拍子もなくて、俺は何も言えなくなった。
黙ったまま動かない俺に、月森は拾った数枚の楽譜を手渡してきた。渡されるまま手を伸ばしてその楽譜を受け取りながら、俺は月森へと視線を戻した。
目の前にいるのは本当に月森なのだろうか。
なんでもないように落ちた楽譜を拾ってくれるのも、それを微笑み付きで渡してくれるのも、俺の知っている月森ではない。
同じコンクールで競い合った仲、と言えば聞こえはいいが、実際は会えば喧嘩にすらならない言い合いと、不毛なにらみ合いを繰り返しているだけの、そんな仲でしかない。
それなのに、目の前にいる月森は俺の知らない表情で俺のことを見つめてくる。
「俺とお前はこんな風に話す仲じゃないだろう」
何かが変な気がする。そう思いながらも俺は、思ったままを口に出した。
「俺は普通科の生徒だし、お前と待ち合わせした記憶もない」
月森の、俺へと向けられる視線が堪えられなくて、拾った楽譜の枚数だけを確認して鞄に詰め込んだ。
その鞄をつかみ、とにかく練習室を出ようと月森の脇を通り過ぎようしたとき、俺の腕は月森に捕まれた。
「梁太郎」
その呼び名に、腕をつかむその強さに、俺は心臓がはねたような気がした。
これは一体、何なのだろうか。
月森のことを見ることができず、俺は視線をそらすように掴まれた腕を振りほどいた。
「君は梁太郎ではないのか?」
真面目な顔でそう聞かれ、俺は一瞬、言葉につまった。
自分が土浦梁太郎であることは間違いない。こんな風に聞かれる理由が分からない。
けれど、何かが違うような気がする。俺が違うのか、月森が違うのか。
「俺は土浦梁太郎だ」
そう答えた俺に、月森の視線が真っ直ぐに向けられたのがそらしていてもわかる。
「でも、俺の知っている梁太郎ではない」
「お前も俺の知っている月森じゃないぜ」
月森の言葉に、俺はそらしていた視線を月森へと戻した。
真っ直ぐに見返すと二人の視線がぶつかり、お互いを探り合うような沈黙が続く。
「君は、誰だ」
そう言って見つめてくる視線は真っ直ぐで、誤魔化しは許さないと言われているようだった。
「俺は…」
言いかけて、でもさっきのようにハッキリと続きの言葉が出てこない。
一体、何がどうなっているのだろうか…。
俺にはわからないことだらけで、何をどう考えて、何をどう言ったらいいのかわからない。
自分が自分であることの証明が、こんなにも難しいものだとは思ってもみなかった。まるで自分のすべて否定されているような、そんな気分になる。
思わず握り締めた手が制服のポケットに触れ、その中にある学生証を思い出して取り出した。めったに出すことのないその学生証には、俺の名前と、普通科の制服を着た俺の写真が貼ってある。
「土浦梁太郎だ」
その学生証を月森に見せながら、とりあえずは自分が普通科の生徒であることは証明できたような気がした。
俺の学生証を手にした月森は、その写真と俺を見比べるように驚きの表情を俺に向けてきた。
「なぜ君が普通科に…」
つぶやくような月森の声は、なぜか少し淋しそうに聞こえた。
じっと写真を見つめたままだった月森は、パスケースから1枚の写真を取り出して俺の学生証と一緒に渡してきた。
「…え、俺…?」
その写真には一度も着た記憶のない音楽科の制服を着た俺と、その隣に月森が写っていた。
「どういうことだよ、これ」
俺の知らない俺の写真が目の前にあって、自分の目を疑ってみてもそこに写っているのは紛れもなく俺で、そして俺の知っている俺の写真もちゃんと手元にある。
「どちらが本当の君なんだ?」
そんな風に聞いてくる月森の言葉に、俺はまた自分のことがわからなくなりそうだった。
俺はとにかく今の状況を把握することにした。
さっき楽譜を詰め込んだ鞄をもう一度開けると見覚えのない教科書が入っていて、そこには音楽科を表すクラスが見覚えのある字で書いてある。
ここに居なければいけない土浦梁太郎は普通科の生徒ではなく、音楽科の生徒でなければいけないということになり、今、目の前にいる月森が俺の知っている月森蓮とは少し違うと思うのは、俺がここにいるはずの土浦梁太郎ではないからなのではないだろうか。
ということは、別の“俺”がいる世界に迷い込んでしまったということだろうか。
なぜ、どうやって、と、そんな疑問が湧いてきて、そしてふと、さっきの突風を思い出す。
窓の開いていない練習室で突然吹いたあの風が、何かの前触れだったのではないだろうか。
そして、最近ずっと考えていたことも思い出す。もしも俺が音楽科に入っていたら…。俺はそんなことを思いながら曲を弾いていた。
ここにいるはずの俺は音楽科に入学し、月森と別の出会い方をしている、その“もしも”の世界の俺だ。
「どうした」
教科書を見つめたまま考え込んで黙ってしまった俺に、気遣うような月森の言葉が聞こえて我に返った。
「いや、ちょっと考え事してた」
見つめてくる視線がさっきと違ってあまりにも優しく思えて、俺はドキリとした。
「何かあるのなら、なんでも俺に言ってくれ」
そう言った月森の表情は何だか必死で、そして少し淋しげで、俺はなんともいえない気持ちになる。
そんな表情を俺に向けるのはどうしてなのだろうか。
それが“俺”だからなのだろうか。けれど俺は、ここの月森にとっての“土浦梁太郎”ではない。つまりこの表情は、本来ここに居るはずの“俺”に向けられるものだ。
そう思うとなぜか少し気持ちが落ち着かなくなった。複雑な気分になりながらも、そんな気持ちは後回しにして、月森に思い付いたこの状況を簡単に説明した。