『音色のお茶会』
背中合わせの未来2
放課後、俺はいつものように練習室へと向かっていた。放課後に限ったことではないが、練習室へと足を運ぶのは学院に入学してから俺の日課になっている。
並んだいくつかの扉を通り過ぎたとき、不意に誰かに呼ばれたような気がして立ち止まるとすぐ傍の練習室のドアが開いた。
「うわっ」
そのドアを開けた人物であろう声が聞こえそちらへと視線を向けると、風に煽られたのか楽譜が練習室中に散らばり落ちるのが目に入った。
それにしては風が吹いた気配など感じなかったと思って窓へと視線を移せば、窓はきちんと閉じられていた。
「見てないで一緒に拾ってくれてもいいだろ、蓮」
ドアの前で立ったまま考え事をしていると聞き覚えのある声に呼ばれ、今度は落ちた楽譜を拾っているのであろう人物に視線を向けながら、何かおかしな感覚に捉われていた。
確かに聞き覚えがある。けれどその声で苗字ではない名前を呼ばれた記憶はどこにもない。
「土浦?」
思い付くその名前を口に出し、けれど目に入った制服が普通科の濃グレーのジャケットではなく、音楽科のものだったことに気付く。
「いや…」
慌てて訂正しようと口を開いたところで、こちらを向いた人物と目が合った。
「なんだよ、本当に拾ってくれないのか。冷たいヤツだな」
見上げてくるその人物はやっぱり土浦で、でもどこかやわらかい雰囲気で俺を見ている。
「約束していたのに待たせたのは悪かったが、そんなに怒るほどのことじゃないだろう」
全部、拾い終えたのだろうか。立ち上がりこちらへと歩いてくるその表情は笑っている。
「君は…」
その声もその姿も、目の前の人物が土浦なのだと俺に判断させるのに、その表情もその格好も俺の記憶にある土浦とは違うものだ。
それに、約束とは何のことだろうか。
「蓮、本当にどうしたんだ。何かあったのか」
その歩みが速くなり、気付いたときには本当に目の前に来ていた。心配そうに見つめられ、そして何の躊躇いもなく俺の手が握り締められる。
「何っ」
触れたことなどないその体温に俺の心臓は大きく跳ね、思わずその手を振り払いながら一歩下がる。
「えっ…」
急なことに驚いたのか、不思議そうに俺のことを見つめてくるその表情が曇り、どこか切なげなものへと変わる。
「蓮…?」
そんな表情を見せられ、呼ばれたことのない名前を呼ばれ、俺は更に困惑する。
「君は、誰だ…。土浦じゃないのか」
俺の記憶の中にある土浦とは違い過ぎていて、けれど土浦ではないとは言い切れない自分もどこかにいる。けれど土浦ではないのならば一体、誰だという話になる。
「土浦梁太郎だ」
真っ直ぐに、本当に真っ直ぐに返ってきたその答えは俺の知る土浦そのものだったが、でもまだ俺は納得出来ないでいた。
「それなら何故、音楽科の制服を着ている。君は普通科の生徒だろう」
音楽科に転科するという話も、したという話も聞かない。例えそれが本人からではないにしても、コンクールを経ていい意味でも悪い意味でも目立ってしまった土浦が音楽科に来るということになったら噂に上るはずだ。
わざわざ音楽科の制服を着て、俺をからかっているというのだろうか。
「蓮こそ何を言ってるんだ。俺たち、同じクラスだろ」
けれど土浦は、なんでもないことのようにさらりとそう答えた。
「それともお前、蓮じゃないのか」
眉間に皺が寄り、見覚えのある、いつも土浦と話すときに見せる表情になった。
でも何か、どこか違う。俺の知っている土浦ではない。
「俺は月森蓮だ」
そう答えることに違和感はなかった。俺は月森蓮だ。
けれど、何か言いようのない強い違和感が俺を襲う。何かが違う。違うけれど、それが何か分からない。そしてそれは、間違いではないようにも思える。
お互いがお互いを知っているはずなのにどこか、何かが違う。
俺は月森蓮で、目の前にいるのは土浦梁太郎で、でも俺の知る土浦ではない。
「一体、どういうことだ」
そうつぶやいたのは土浦だったが、俺も同じことを思っていた。