『音色のお茶会』
海に輝く月27
俺たちの演奏は、ちょうど食事会の締めを飾る形となった。帰る来客者たちを月森と一緒に見送っていた俺に厳しくも優しい励ましや期待の言葉が掛けられ、それはとても嬉しく思うと同時に、生半可な気持ちではやれないことなのだと改めて感じさせられて、その言葉ひとつひとつを胸へと刻みつけた。
最後に先生を見送り、俺もそろそろ帰ろうとすれば、月森は俺も行くから待っていてくれと耳打ちしてきた。最後の晩くらい自分の家に泊まっていけばいいだろうと言えば、でも荷物は君の家だからとあっさり返された。
そういえば帰国初日から俺の家に泊まっていて、そのときからずっと荷物は俺の家に置きっぱなしになっている。明日の飛行機の時間を考えれば、朝になってから荷物を取りにくるのは効率が悪い。それならば今日のうちに荷物を持ってきておけばいいのにと俺は思ったが、夜の予定をわかっていたはずの月森がそれをしなかったのは、たぶんわざとなんだろうと気付いて呆れてしまった。
つまり最初から、今日の晩も俺の家に来ることを月森は決めていたってことだ。
少しでも長く一緒に居られることは嬉しいと思うが、留守がちな月森の両親がせっかく揃っているのに、とも思う。それに、まさか俺の家に泊まっているとは知らないのだろうから、なんとなく後ろめたい気分にもなってしまう。
申し訳ないと思う気持ちを伝えることが出来ない代わりに、今日の突然の訪問のお詫びとお礼の言葉はしっかりと伝えた。
たぶん俺は言葉にして伝えることの出来ないこの気持ちを、これからもずっと抱えていくのだろう。
家に帰り着くと、自分では気付いていなかった疲労感やら緊張感やらがどっと押し寄せてきて、自室に入るなり急に膝が震えてその場へと座り込んでしまった。
「思った以上に緊張していたみたいだな、俺」
そんな膝へと伸ばした手までもが震えていて、俺は苦笑いを零さずにはいられなかった。
「土浦?」
驚いたような声に振り返って見上げれば、急に視界から消えた俺を見下ろす月森と目が合った。
「でも、楽しかった」
俺を真っ直ぐに見てくれる月森の視線は、色々な感情でいっぱいになっていた俺の心を落ち着かせてくれる。それは演奏が楽しかったことも思い出させてくれて、俺は苦笑いを笑顔に変えることが出来た。
たった数曲だったが、月森との演奏は本当に楽しかった。弾いているときは、観客に誰がいるかなんて忘れてしまうほどで、ピアノを弾くことも、そのピアノをヴァイオリンと合わせることも、楽しくて楽しくて仕方なかった。
「俺も楽しかったし、それ以上に、嬉しかった」
俺の正面へと座り、真っ直ぐに向けられる月森の言葉は少し気恥ずかしかったが、それは俺も全く同じ気持ちだった。
「俺も、月森と演奏出来るのは嬉しいって思う」
だからその気持ちを言葉にすれば月森もまた本当に嬉しそうな表情を俺に向けてくるが、次の瞬間、何故かその表情を微かに歪めた。
「土浦とまた一緒に舞台に立てるのだと思うと本当に嬉しい。だが、俺は本当に、君と一緒に演奏することを望んでいいのだろうか」
遠慮がちに月森の手が俺の手に触れる。握る訳ではなく、ただ重ねられただけのそれが妙に切ない。
電話で話したときもそうだったが、月森はまだ昨日のことを気にしているのかもしれない。俺が逃げ腰になっていた所為で、月森にまで余計な心配を掛けさせてしまったのだと悔やんでも遅い。
「当たり前だろう。俺はもう逃げないって決めたんだ。月森からも世間からも、自分からも」
触れた手をぎゅっと握ってそう答えれば、まだどこか不安そうな表情でそっと握り返された。
「誰に何を言われても、俺にとっての一番は土浦だということを忘れないでいてくれ…」
月森はいつでも俺が一番だと言ってくれていた。それなのに、そんな月森を少しでも疑った自分が本当に情けない。
「あぁ、忘れない。月森が俺を一番だと思ってくれている気持ちも、一緒に演奏出来ることを嬉しいと思う気持ちも、俺が月森を一番だと思う気持ちも、俺は忘れない」
真っ直ぐに月森の目を見て伝えたその言葉は、俺の本心であり、誓いでもあった。
もう逃げない。絶対に、忘れない。