TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

海に輝く月21

 とてもピアノが弾きたくなって、俺はアンケートの束を握り締めたまま練習室へと入った。
 ピアノを弾きたい。音楽を奏でたい。音色を響かせたい。
 譜面台にアンケートの紙を揃えて置き、ピアノの鍵盤蓋を開ける。並んだ鍵盤に指を乗せると、初めて曲が弾けたときのなんともいえない高揚感が心の奥底から湧き上がってくるような気がした。
 巧いとか下手とか、そんなことは考えていなかった。ただピアノを弾くことが楽しくて、面白くて仕方なかった。
 あの頃の純粋な気持ちを思い出せば、指は自然と楽しい曲を奏で出す。いつもより指が軽やかに動き、本当に楽しくて仕方ない。
 今まで弾いてきた、幾つもの曲が心に浮かぶ。
 小学校の頃に弾いた合唱の伴奏、少し苦い思い出の残る初めてのコンクール、悔しいのに弾くことだけは止められなかった数年間、久し振りに人前で弾いた高校のコンクール、文化祭やクリスマスのコンサート、大学で組んだアンサンブル、卒業試験での実技、いろいろな場所で弾いてきた数々の曲。そして何より、月森のリサイタルで奏でた二人の音色が、あの日の緊張感や高揚感と共に思い出された。
 数えれば限がないその曲のひとつひとつを思い出せば、それだけで心が温かくなったような気がする。
 ピアノを弾くことはこんなにも楽しいものなのだと改めて実感し、こんな風に一人で弾いていることがもったいなく感じる。
 誰かに聴いて欲しい。誰かと共に奏でたい。
 いや、誰かなんかじゃない。月森と共に音楽を奏で、そして作り上げた曲を、大勢の人に聴いてもらいたい。
 曲が全て弾き終わらないうちに、いてもたってもいられなくて練習室を飛び出した。
 今すぐ月森と一緒に弾きたい。弾けないのなら逢うだけでも、いや、声を聞くだけだっていい。
 俺はとにかく月森の携帯へと電話を掛けた。今日は最後の晩ということもあり、先生を招いてささやかな食事会をするのだと聞いていた。そんなところへ掛けてしまうのは申し訳なく少し気が引けたが、俺は自分の衝動を抑えることが出来ない。今日を逃せば月森はまたウィーンへ行ってしまうのだと思うと、この気持ちは更に止められなかった。
 繋がるまでの無機質な呼び出し音が、とてももどかしい。
『もしもし』
 数コール後に出た月森の声を聞くと、弾きたいと思う気持ちが更に溢れてくる。
 受話器越しに華やかな音楽が聴こえてきたが、話をしても大丈夫かと確認の言葉をかけている間に、その音は段々と遠ざかっていった。
『どうした』
 尋ねてくる月森の声に、俺はひとつ大きく息を吸った。
 弾きたいという想いが大きな決断力になる。
「月森、俺は決めたぜ。ウィーンでの演奏会の話、ありがたく受けさせてもらうことにした。こんなところで立ち止まっているのなんて、俺らしくないよな」
 その言葉は、まるで心から溢れてくるかのように自然に出てきた。
 一気に、何の前置きもなかった俺の言葉に、月森は驚いているようだった。それはそうだ。俺だって自分で少し驚いている。
「今、ピアノを弾きたくてたまらないんだ。この気持ちで弾く俺の音を、たくさんの人に聴かせたい。音楽を、伝えたい。出来れば、月森と一緒に…」