『音色のお茶会』
海に輝く月14
俺の出した答えに月森は少し不満そうな顔を向けてきた。「逃げる訳じゃないんだ。ただ、もう少しだけ時間が欲しい」
月森にあそこまで言われて断るつもりはなかったが、俺は自分も世間も納得させられないまま答えを出してはいけないと思った。その思いをわかって欲しくて真っ直ぐに月森を見れば、俺の言葉を確かめるかのように月森も真っ直ぐに俺のことを見つめてくる。
「わかった。二人で納得の出来る答えを出さないままではいい演奏会になるとは思えない。だから君が本当にやりたいと言ってくれるまで、俺はずっと待っている」
しばらく沈黙の時間が続いた後、月森はそう言って納得してくれた。
「ありがとう。あ、でも、悠長に考えてる時間なんてないのか…」
これが俺たちだけの問題ではなく第三者からもたらされた話なのだから、俺はわがままを言って答えを先延ばしすることなど出来ない立場なのだと思い出した。
「大丈夫だ。あとは二人で答えを出してくれと言われている。たぶん、やらないという返事は受け付けてもらえないと思うがな」
それは俺も同じだが、と小さく続いた言葉に、俺は改めてちゃんと自信を持って答えられるようにならなくてはと思った。
「それにしても、どうして急に俺にこんな話がきたんだろうな」
ふと、俺はずっと疑問に思っていたことを口に出した。
「あぁ、それは俺も不思議に思ったから聞いてみた」
そう答えた月森の顔は、何かを思い出したかのように少しやわらかくなった。
何だと視線で問えば、月森はゆっくりと話し始めた。
「日本でのリサイタルの後、俺の演奏が少し変わったことに気付いて、君に辿り着いたらしい」
相変わらず細かな説明を省き過ぎな月森の言葉に、俺は思わず首を傾げてしまった。
「どういうことだ?」
確かに、さっき合わせた月森の演奏はリサイタルのとき以上だとは思ったが、どこをどう辿り着けば俺に繋がるというのだろうか。
「俺も自分でははっきりとわからないんだが、どうやら音色が少し変わったらしい。君のことを色々聞かれたと言っただろう。あれは変わった要因をリサイタルでの君との演奏の影響だと踏んだからだったんだ」
月森は演奏会を経験する度にその技術を増していく。そんな月森の音を変える要因に俺が関係しているのなら嬉しいが、その説明ではまだよくわからなかった。
「これは俺も初めて知ったのだが、先生は君のことをだいぶ調べていた。君の演奏が録音されたCDや、リサイタルの練習時に録音していた音源まで手に入れていたと聞いた」
月森の言葉に俺は驚いた。日本への来訪も急な思い付きのように言われていたから、まさかそこまでされていたとは思いもしなかった。でもよくよく考えてみれば、急な思い付きだけで俺がこんな話に誘われることはないはずだった。
「集めたCDを聴き、何かを感じたんだろう。そして俺の演奏と同様に君の演奏も変わったことを確かめに日本へ来て、そして確信したとそう言っていた」
確かに、音が変わったとはリサイタルの前からよく言われていた。それが月森と一緒に演奏しているからだという自覚も少なからずあった。
「だからってどうして、そこから演奏会の話が出てくるんだ?」
それまでは黙って聞いていたが、どうしても肝心なところがわからなくて、俺は思わずつぶやくようにその疑問を口に出していた。
「君は本当に自分のことをわかっていない。さっきも言っただろう。俺は土浦と一緒に演奏するときが一番いい音を出せると」
軽いため息混じりに月森は言葉を続けた。
「君の演奏は俺に影響を与え、俺は最高の音色で演奏する。俺の演奏が君に影響を与えたら、君の音色は?」
「最高の、音色…」
急な質問だったが、思い付く答えは一つしかなかった。
「そうだ。お互いがお互いに影響を与え合い、最高の音色を奏でる。だから二人で演奏会を開くことは、最高の演奏会を開くことになるのだと言われて、俺はとても嬉しかった」
微笑む月森のその言葉に、その言葉の意味が分かるからこそ、どう答えていいのかわからなかった。
月森が俺の音を認めてくれていることはわかる。けれど世間のすべてが俺の音を認めてくれている訳じゃない。名前の売れていない俺よりももっと有名な演奏家と、もっと素晴らしいピアニストと、もっと月森蓮にふさわしい共演者をと、そう世間は言うし、俺も心のどこかでそう思っていた。
けれど、音楽の本質はそこじゃない。本当に最上の音色を奏でられる条件は、もっと違うものだ。
「もちろん、先生は君の実力を認めている。認めた上で、更に俺たち二人で作り上げた音色が最高だと、だからウィーンでも演奏会を開いてほしいと、君にもそう伝えてくれと言っていた」
俺はその言葉が信じられなくて、でも嬉しくて、胸が熱い思いでいっぱいになった。
目に見える表面上で判断されたのではなく、俺の本質を見てくれたのだということがわかる。
「まさか、そんな理由だったとは、考えもしなかった。そんな風に認めて貰えるとは思ってもいなかった…」
呆然とそう答えた俺を、月森は嬉しそうに見つめている。
「君は自分の実力に無自覚過ぎるんだ」
実力に順位をつけるのが嫌いだと思いながら、俺は世間がつけた俺と月森の差をそのまま自分の実力だとそう思ってきた。そしてその順位に甘んじていたのかもしれない。
2010.1.8up