『音色のお茶会』
海に輝く月13
まだ間に合ってくれと思いながら練習室を出ると、目の前のリビングのソファに月森が座っていた。「ずいぶんと時間が掛かったな」
そこに月森がいたことに驚いてドアを開けたまま立ち尽くしていた俺に、相変わらず冷ややかな月森の声が届く。
思わず震えた肩を誤魔化すように後ろを向きドアを閉めると、背中越しに月森が立った気配を感じる。
逃げてはいけないと、そう思って部屋を出てきたんだろう、俺は…。
「土浦」
呼ばれたその名前に、冷たく無表情な月森と対峙することを覚悟しながら振り返れば、真っ直ぐに見つめてくる月森と目が合う。
真っ直ぐ過ぎて目をそらすことすら出来ないまま、俺は止まってしまいそうな息をゆっくりと吐き出した。
「ウィーンでの演奏会の話を聞いたとき、俺はとにかく驚いた。突拍子もなさ過ぎて、まさかって思ったのと同時に、俺には無理だって思った」
緊張感はあったが、言葉は自然と出てきた。話し始めた俺の言葉を、月森はただ黙って聞いていた。
「俺の本心は、やりたいんだと思う。だが、お前に追いつけないと思っていることも、ウィーンでの演奏会が今の俺には無理だろうと思う気持ちも、俺の本心だ」
中途半端に口に出しながら、それでも言えなかった本心を俺は月森に伝えた。それを言葉にするのはやはり勇気がいることだったが、言ってしまえば気持ちは少しだけ軽くなったような気がする。
俺の本心は伝えた。後は、それに対して月森がどう答えるかだけだ。
「君が、やりたいと思ってくれていてよかった。やれないと、そう言われたらどうしようかと思っていたんだ」
どんな答えが返ってくるのかとほんの少し緊張していると、予想とはどこか違う答えが返ってきた。
「…え?」
俺の話をちゃんと聞いていたのだろうかと疑ってしまいたくなるような月森の言葉に、俺は思わずそう聞き返していた。
「昨日の君は、すぐにでも断ってしまいそうな顔をしていたし、一緒に合わせてもどこか上の空で感情が伝わってこない」
月森はまるで痛みに耐えるかのような表情をしていた。
「言葉は少し違ったが、俺はさっき断られたのかと思った。君にとって俺は、それだけの存在でしかないのかと思って、辛かった…」
伸ばされた手が、さっきと同じように俺の腕を掴んでくる。それは大して強い力ではなかったが、まるで月森の気持ちを伝えてくるかのような痛みを感じた。
そして真っ直ぐに伝えてくるその言葉に、俺はずっとわからなかった月森の気持ちをようやく理解し始めていた。
月森が冷たい表情を向けてきたのは、弱気になった俺を攻めていただけじゃない。きっと逃げないでくれと、そんな想いがあの表情には込められていたのだろう。
「俺は、俺の演奏では、月森にふさわしくないんじゃないか、日本でのリサイタルのようにはいかないんじゃないかと、そう思った。だから俺も、月森に一緒にはやれないと言われるような気がして怖かったんだ」
月森の気持ちを知って、俺も言葉にしなかった本音を口に出した。何よりも一番怖かったことを言葉にすると、胸の奥が軋むように痛かった。
「俺とお前の実力には、どうしたって埋められないものがあることはわかっている。わかっているからこそ、月森の言葉が怖かったんだ」
「どうして君は自分の実力を自分で認めないんだ。何故、世間が作り上げた差に振り回される。俺は君の演奏が俺にふさわしくないなど、一度だって思ったことはない」
俺の言葉を遮るよう言われた月森の言葉は、それまでにないほどの強い口調だった。
「憶えておいてくれ。俺にとっては君と演奏するときが、一番の音を出せる最高の瞬間なんだ」
掴まれた腕が、痛い。月森の言葉が、それが月森の本心だと伝えてくるから、俺は泣いてしまいそうなほどに心が痛い。
「君が少しでもやりたいと思ってくれているのなら、どうかこの話を断らないでくれ…」
月森の言葉に、俺の悩みなど杞憂だったのだと思った。俺たちは、全く同じことを、全く逆に考えて悩んでいたのかもしれない。
「土浦…」
俺を見つめてくる月森の顔は、どこか頼りなげな表情をしている。
月森がいつだって自信たっぷりで揺るぎなく見えるのは、精神的にあまり強くないが故に強くあろうとする意志の現れなのだと、俺は知っているはずだった。だから冷たいと思う表情にも言葉にも、いつだって月森の本心が隠されている。
俺はそんなことにも気付かず、ただただ目の前の恐怖から逃げようとしていた。いろんな言い訳をして、自分が一番傷付かない道を選ぼうとしていた。
そして俺は、月森のように強くなれない自分に気付かされる。
「俺もお前と一緒に演奏をしたいと思う。だが…」
だが、今のままでは、こんなにも弱いままではダメだと思う。
「結論を出すのは、もう少し待ってくれないか」
俺はある決意を持って、月森にそう答えた。