『音色のお茶会』
海に輝く月11
ヴァイオリンを片付けているのであろう音だけが部屋に響き、しばらくするとケースを持った月森が部屋から出て行くのを、俺は気配だけで感じていた。扉が閉まってしまえばその先の月森の行動は何も見えないし聞こえてこない。
振り向けば窓があり、そこからリビングを見ることが出来ることもわかっている。それよりも、今すぐドアを開けて追いかければ、月森を捕まえることは容易いだろう。
けれど俺は、まるで固まってしまったかのように動けない。つぶったままの目を、開けることすら出来ない。
振り返って月森を追いかけて、俺は一体何を言えるというのだろうか。
無理だと、最初にそう言ったのは俺で、月森からもそう言われた。これ以上、何も話すことなどない。
だから月森もこの部屋を出て行ったのだろう。
昨日からずっと考えていたことが現実になっただけ。一番怖れていたことが言葉になっただけ…。
「っ!」
目の奥が熱くなったような気がして俺は思わず目を開けた。視界が揺れそうになって、俺はもう一度目をつぶると更に奥歯を噛み締めた。
こうなることはわかっていた。わかっていながら、何もしなかったのは俺だ。それなのにここで泣くなんてみっともない。
膝の上でぎゅっと拳を握り締めれば、月森に掴まれていた腕の痛みを思い出した。
真っ直ぐに月森を見ることは出来なかったが、向けられたまなざしも声も心に残っている。
その痛みが、声が、抑えようと必死になっている涙を誘う。掴まれていた腕をそれ以上の力で掴み、涙が零れないようにと上を向いて何度も何度も瞬きを繰り返す。
昨日の月森の冷たい目もそらされた視線も、今日の月森の行動も言葉も、俺には明確な理由なんて何もわからなかった。
だが、そうなるであろうと予想していた通りになって、そのすべてが今に繋がるための布石だったのではないだろうかと思う。
それがわかっていたから怖かった。俺は抗うことよりも、逃げることを選んでしまった。
そして、心のどこかで微かに期待していたことも否めない。月森ならばと、もしかしたらと、そんな都合のいいことを考えていた。
でも、月森は音楽に私情を持ち込むヤツじゃない。そんなことはわかっていたはずだ。
結局、俺はまた、避けられたはずの後悔をしている。
どれだけの間、天井を見つめていたのだろうか。俺はため息混じりに視線をゆっくりと戻した。
目の前には弾き慣れたピアノがある。白と黒の鍵盤はいつだってそこにあり、触れるまでは一切音を立てずきちんと並んでいる。それはまるで誰かが弾いてくれるのを静かに待っているかのように思えた。
鍵盤に触れようと思い、俺はまだ自分の腕を掴んだままだったことを思い出した。
よほど強く握り締めていたらしく、ゆっくりと放した手は指先が微かにしびれている。その指をほぐすように動かしながら、俺は自分の手を見つめた。
この手は、何をするための手だ?
そう思えば、俺の手は自然に鍵盤へと伸ばされた。そしてそれが当たり前のように、俺の指はいくつかの音を流れるように弾いていく。
聴きなれたピアノの音が、部屋に響き渡る。
触れたときと同じようにゆっくりと指を放し、音の余韻に耳を澄ますように目をつぶる。
大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐ききったところで目を開ければ、少しだけ気持ちが冴えた気がした。
今度は明確な意思を持って鍵盤へと指を滑らせる。
さっきは物足りなさしか残らなかった曲を、思い出す月森のヴァイオリンに合わせて弾き始める。
月森のヴァイオリンは俺を圧倒するが、それでも俺はそのヴァイオリンに一番合う音色でピアノを奏でていくことが出来た。
月森の想いを感じ、月森を想って、それを音色へと変える。
頭の中でしか重なり合わない音色が少し悲しい。月森と一緒に弾いたときに、この音色を奏でられなかったことがとても悲しい。
聴きなれたピアノの音だけが、どこまでも広がるように響いていく。
月森のヴァイオリンに込められていた想いが今ここにはないのだと、そう思うと締め付けられるように胸が痛い。
一人奏でるその音色は、今まで何度も繰り返し弾いた中で一番切なかった。