『音色のお茶会』
海に輝く月10
曲が終われば、その曲の余韻よりも何か物足りないような気持ちが強く残った。その理由は自分でもよくわかっている。
俺は全然、弾けていなかった。
「・・・悪ぃ…」
俺は月森へと視線を上げたが、月森の表情を見ていられなくて、すぐに鍵盤へと視線を戻して小さくつぶやいた。
弓を下ろしてこちらを見ていた月森の眉間には、僅かだが皺が寄せられていた。
「何を考えていた?」
その言葉と共に、ヴァイオリンを置いた月森がこちらへと一歩近付いた気配を感じる。
「ピアノから君の気持ちが何も伝わってこなかった」
頭上から聞こえてくるその声に、すぐ側で月森が俺のことを見下ろしているのだと嫌でもわかる。
立っている月森と座っている俺ではそれが当たり前なのだが、それ以上の意味があるような気がして仕方ない。
「何って…」
俺は鍵盤をじっと見つめたままつぶやくように言葉を探したが、それに続く言葉は何も出てこなかった。
俺には月森のヴァイオリンについていくことが精一杯で、何かを考える余裕などなかった。だから何も考えていなかったというのが答えだが、それを言葉に出すことは出来なかった。
確かに何も考えなくても曲は弾ける。俺の指は奏でるべき音を覚えていて、自然とその曲を奏でることが出来る。
ついさっきまで一人で弾いていたときも、俺はたぶん何も考えていなかった。いや、逆にあれこれと考え過ぎていたのかもしれないが、それでも俺は曲を弾いていた。
そうやって弾くことは出来ても、そこに何の感情もなければそれはただの曲にしかならない。そして何も考えられずに弾いた今も、感情など考えている余裕がまったくなかった。
俺は月森と一緒に演奏していたにも拘らず、一緒に合わせることの出来る喜びも、この曲を弾く度に感じる切なさも、音色として奏でることが何も出来なかった。
そして、月森の演奏から月森の感情を読み取ることも出来なかったのだと気付いて愕然とした。
月森の演奏に感情がこもっていなかった訳では決してない。心を揺さぶられるような切なさは感じていたはずだ。
けれど俺の心は、その切なささえも表面上でしか捉えていなかった。
「何を、考えていた?」
同じ質問が繰り返される。
「俺、は…」
月森のヴァイオリンに圧倒され、月森との差を嫌というほど感じ、ピアノを弾くだけで精一杯だった。
俺のこの曲に対する想いも月森に対する想いもなく、月森が伝えてきたであろう感情も想いも何も考えず、俺は本当にただ、ピアノを弾いただけだったのかもしれない。
「土浦…」
不意に腕を掴まれ無理やり月森へと身体の向きを変えさせられて目が合う。その視線から月森の感情を読み取る前に、俺はぎゅっと目をつぶって顔だけをそらした。
「土浦っ!」
月森と目を合わせたくなかった。月森の言葉も聞きたくなかった。
さっきから感じていた嫌な予感で、心の中がいっぱいになる。
「俺は、お前には追いつけない…」
月森から言われる前に、俺から言ってしまわないと余計に心が折れそうだった。
言葉にすると、それはやけに実感させられる。わかっていたくせに、心が痛い。
「どうして君は…っ」
掴まれた腕がやけに痛い。
けれど俺には、その腕から逃れることも、月森の問いに答える言葉を探し出すことも出来ずに黙っていた。
俺からの言葉を待つように無言のまま掴まれていた腕が、更に強い力で握られたと思ったら不意に離された。
「それは、昨日の話に対する答えだと受け取っていいのか」
頭上から、静かな月森の声が届く。
俺はその言葉に頷くことは出来ず、奥歯をぎゅっと噛み締めた。
自分で認めているくせに、自分で言葉に出したくせに、それでもまだ決めかねている自分がいる。
「君と一緒に舞台に立てるのは嬉しいし楽しみだ。だが、今の君ではそう思えない」
離れていく月森の気配が、耳に届くその言葉が、思った以上に辛かった。
2009.11.28up