『音色のお茶会』
海に輝く月9
何かをしていないと思考がどんどん沈んでいきそうで、俺は練習室に籠ってピアノを弾いていた。何度も何度も繰り返し弾いてみたが、我ながらひどい演奏だと思う。
これは技術でも感情でもない。楽譜に書かれた音符を、ただ音にする作業を繰り返しているだけだ。
意識がピアノに集中してくれない。自分が今まで、どんな風にピアノを弾いてきたのかが思い出せない。
こんな演奏しか出来ない俺に、ウィーンでの演奏会など到底無理だ。
「随分、音が荒れているな」
鍵盤を叩きつけるように演奏を中断させたそのとき、背後から急に声が聞こえて俺は振り返った。
「月森…」
いつからいたのだろうか。腕を組んだ月森が、扉に寄りかかるようにして立っていた。
「何度か連絡をしたんだが繋がらなかったから勝手に上がらせてもらった」
淡々と説明するその声からは感情が読み取れない。
「あ、あぁ、ずっとここにいたから…」
言いながら俺は楽譜へと手を伸ばす。それは無意識に近い行動だったが、真っ直ぐに向けられたその視線から逃げようとしたのかもしれない。
けれど目をそらしても、月森の視線はまだ俺へと向けられているのが背中越しに感じられた。
静かな練習室に、楽譜をたたむガサガサという音だけが響く。その音をかき消しそうなほどに、俺の心臓は激しく鳴っている。
月森に、聞こえてしまいそうだ…。
「土浦」
そう思った瞬間に聞こえた俺の名を呼ぶ月森の声は、心臓が止まってしまうのではないかと思うほどの大きな衝撃だった。
「な、なに…」
不自然にならないようにと思いながら振り返った俺の声は、そんな努力もむなしく裏返ってしまう。
俺はまだ真っ直ぐに月森を見ることが出来ず、不自然にならない程度に少しだけ視線をずらした。
「折角だから、何か合わせないか」
そう言いながら月森は少し屈む。釣られるように視線を下ろせば、その足元にはヴァイオリンケースが置かれていた。
俺の返事を待たずにそのケースを持ち上げた月森は、それが当たり前のようにさっさと準備をし始めた。
俺が目をそらした所為もあったが、月森の表情からも声からもその心はまるで読めない。
何かを感じ取ろうと月森の後ろ姿を見つめたが、思ってもみなかった申し出の意味も月森の心も、俺にはまったくわからなかった。
軽く構えたヴァイオリンの音色が、すぐ側で鳴り響く。
調弦のための一音一音が、寸分の狂いもない音へと変わっていく。そのすべてが綺麗に合わさった瞬間に響く音色は真っ直ぐで、月森そのもののようだ。
帰ってきたその日には聴くことの出来なかった月森のヴァイオリンの音色が部屋の中に響き渡る。まだ曲ではないのに、その音に圧倒される。
「何がいいだろうか」
弓を下ろした月森が不意に振り返った途端に目が合い、俺の心臓はドクリと嫌な音を立てた。
その目から感情を読み取ることはやっぱり出来ず、俺は思わず椅子から立ち上がっていた。
「土浦?」
急に立ち上がった俺に驚いたのだろう。軽く見開かれた月森の目が俺を真っ直ぐに捉え、その感情のまま俺の名前を呼ぶ。
「あ、いや…。そう、楽譜…」
月森の表情が動いたことで俺は少しだけホッとしたが、自分がとってしまった行動に自分でも驚いて言葉がしどろもどろになる。
今、思い付いたことなのに、楽譜を取りに行くために立ったのだと誤魔化して俺はまた月森に背を向けて棚へと歩き出す。
俺は一体、何をやっているんだろうか。こんな風に逃げるなんて俺らしくない。
けれど、何か嫌な予感のようなものが俺の心を占めていく。
「いや、楽譜は要らない曲にしよう」
棚に並べられた楽譜を取ろうと扉へと手を掛ければ、その扉を開く前に静かな月森の声が耳に届く。
暗譜している曲はたくさんあるが、その中のどの曲を月森は選ぶのだろうか。
そう思いながらピアノへと戻る俺を、月森はヴァイオリンを構えたまま待っている。そして俺が椅子に座れば、弓を持つ右手が上がった。
何も告げられないまま月森が弾き始めた曲は、リサイタルのときに月森が作曲した曲だった。
久し振りに聞く月森のヴァイオリンの音色は、春よりも格段、巧くなっている。いや、それは巧いなどという簡単な表現で言い表せるものじゃない。
いつ聴いても完璧だと思う音色が、次に聴くときには必ずそれを上回っている。月森の音色はいつも最上で、それなのに限界がない。
初めて聴いたときに感じた心を揺さぶるような感覚と、あの舞台で感じた圧倒的な音色に対する焦りが蘇る。
それでも何とかピアノへと指を滑らせたが、俺は月森のヴァイオリンに合わせるのが精一杯だった。