『音色のお茶会』
海に輝く月7
二次会にも誘われたが、今は落ち着いて考えたかったし、これ以上笑っていられないような気がしてそれは断った。盛り上がっている雰囲気を俺の個人的なことで水を差すつもりはなかったし、今日の演奏が本当に楽しかったことは本当のことだからその場は笑っていられたが、ふと、月森の表情を思い出して気分が沈んでいくのは止められなかった。
それに元々、明日は朝から仕事が入っていたから行く予定にはしていなかった。
「土日が関係ない仕事っていうのは大変だね」
同じく二次会へは行かなかったらしい加地に声を掛けられ、俺たちはそのまま一緒に歩き始めた。
「でも、好きなことだからやっていられるのかな」
特に俺の返事を待っている訳でもなさそうな加地は、どこか楽しそうな顔でしゃべっている。
そんな加地の言葉が何故か心に引っ掛かり、俺は心の中で繰り返した。
好きなことだからやっていられる。
俺は音楽を好きだからピアノを弾いている。好きだから、ピアノを弾くことを仕事にしている。だからピアノを弾くことを苦に思ったことはない。
改めて考えるまでもないことを並べてみればそれは当たり前のことで、でも何か大事なことが含まれているような気がするのに、思考はそこに辿り着けない。
「土浦?」
不意に呼ばれ、俺は間抜けな声で加地へと振り返った。
「さっきから様子がおかしいけど、何かあった?」
そう指摘され、俺は少し気を抜いてしまっていたことに気付いた。
「いや、別に、何も…」
思わず否定の言葉を並べたその返事は口篭ってしまい、これではまるで何かあったのだと言っているようなものだと後悔したがもう遅い。
「僕でよければ聞くけど…」
こういったことに聡い加地に誤魔化しはきかない。
月森が楽屋へと顔を出したときから気になっていたらしい加地は、月森たちに会いに行くときも、どんな話か聞かせてねと、にこやかな笑顔を向けてきていた。
「…。ウィーンで月森と演奏会をやらないかと言われた」
親切というよりどちらかといえば好奇心のほうが勝っていることがわかっていながら、俺は仕方なく話し始めた。
いや、もしかしたら、誰かに何か意見を言って欲しかったのかもしれない。
「月森と、ってことは、月森からの提案じゃないってことだよね」
驚いたような加地にそう聞かれ肯定の返事を返せば、更に驚いた顔を見せた。
「すごいじゃない、土浦。お眼鏡に適う人は滅多にいないって言われるくらいの人に誘われるなんて」
チケットの入手先に加地が関わっていたからか、俺の短い説明でも誰に誘われたのか加地は察したらしい。
少し興奮気味な加地の言葉に、そんなにすごい人だったのかと俺は驚いた。そして月森のすごさもまた更に思い知らされた。
「月森が日本でリサイタルを開いたからきっと海外でもやるんだろうって思ってたけど。詳細が決まったら教えて、絶対に聴きに行くから。あれ、じゃあなんで土浦は浮かない顔してる訳?」
まるで自分のことのように楽しそうに話す加地の顔が、不思議そうに傾けられる。
「まだ決定じゃない。っていうか、話が突拍子もなさ過ぎて何の返事もしてない」
何でこうも簡単に決定事項に出来るんだと思い、思わずその口調が強くなってしまう。
「どうして。春のリサイタルの共演のときからこうなることは予想がついていたんだろう?」
確かに、そんな話がなかった訳ではない。でもそれは話の流れで出ただけで、笑って無理だと答えていた。
「…もしかして土浦、月森との差を気にしてる…?」
加地は何も言えずにいる俺の本心をずばり言い当てる。苦々しく視線をそらした俺の態度が、そのまま返事になった。
何かを考えているかのように加地は黙り、俺も何を言っていいかわからなくてしばらく沈黙が続いた。
「高校の頃、日野さんに誘われてアンサンブルのコンサートに出たとき、僕はみんなとのレベルの差を本当に痛感したよ」
俺たちはそのままただ歩いていたが、加地はそんな沈黙を破って話し始めた。
「練習は嫌いじゃなかったけれど、なかなか上達しないのはちょっと辛かったかな。でも、諦めなければ何とかついていくことが出来るって、そうも思った。だからどんなに時間が掛かっても、みんなと同じ場所に立とうって思っていたんだ。僕はあのとき、諦めなくてよかったって今でも思っているよ」
真っ直ぐ前を向いていた視線が不意に俺へと向けられ、釣られるように俺も加地へと視線を向ける。
「僕はヴィオラを弾くことが好きだからね」
それは静かな、本当に静かな一言だった。
加地のその言葉にまた、何か大事なことを言われたような気がした。
「だが、好きだからっていう理由だけじゃやれないこともあるだろう」
それが大切なことなのだとはわかっていても、それだけでは解決出来ないことがあることも経験上、知ってしまっている。
「確かにそうかもしれない。でも、やる前に諦めるのは好きなものに対して失礼だと思わない?」
言われたことにカチンときて、俺は思わず加地をにらみつけた。
「実際問題、俺と月森との間にある差はその気持ちだけで埋められるようなものじゃないだろう。どう考えても大き過ぎるんだ…」
誰に言われなくても、それは俺自身が一番よくわかっている。わかっているからこそ、その差を埋められない自分が情けなくて悔しい。
俺がどれだけ声を荒げても加地はその表情を変えることはなく、じっと俺のことを見ていた。
「僕の音はみんなよりもずっと劣っていて、練習も人の倍以上やらないとついていかれないし、レベルだってずっと低くて恥ずかしく思うことが多かった」
「それはお前が思っていただけだろう。俺はお前のレベルが低いなんて思ったことないぜ」
高校のときから、加地はどこか自分を低く評価していたように思う。それが原因で些細な言い合いになったこともある。
「月森にも同じことを言われたよ。君は自分を過小評価し過ぎだ、ってね。今の土浦も同じなんじゃないかな。僕に言わせれば、月森も土浦も、同じ位置に立っているように思えるよ。なんて、僕が言っても説得力はないかな」
そう言って笑った加地の言葉に、俺はハッとして何も言い返すことが出来なかった。