『音色のお茶会』
海に輝く月6
みんなより遅れて打ち上げ会場へと向かいながら、俺は一人、考え事をしていた。今頃、懐かしい顔触れも集まって盛り上がっているのだろうが、今の俺の心境といえば全く対照的なのかもしれない。
演奏会か終わったら少し時間をとれないかと月森に言われ、俺は月森の先生にお会いした。
演奏会の余韻から一転、緊張した面持ちで待ち合わせ場所へと向かうと、挨拶も自己紹介も済ませていない本当に初対面の第一声で、君たちの演奏は本当に素晴らしかったという、今日の演奏会に対する称賛の言葉を頂いた。その言葉がとりあえずのお世辞ではないということは、その声や言葉の印象、そして表情からちゃんと伝わってきてとても嬉しかった。
ドイツ語で伝えられるその言葉の全てを自分だけでは理解することが出来ず、月森に訳してもらわなければいけなかったのが少し悔しいが、その言葉を伝えてくれる月森の表情も嬉しそうだった。
舞台袖から見た客席に座るその人はどこか厳しそうな顔をしていたが、話をしてみるとそんな印象はあまりなく、いつの間にか緊張は解けていた。
場の雰囲気が和やかになった頃、ところで、と言って話が本題に入った。向けられた表情は真剣なものになり、厳しい眼差しへと戻っていた。
何を言われるのだろうかと構えた俺は、ウィーンで蓮と一緒に演奏会を開く気はないか、と言われて一瞬、自分の耳を疑った。
何か単語を聞き間違えたのだと思い聞き返そうとすれば、俺が口を開くよりも早く、隣にいた月森が何を急にと、割って入ってきた。そしてそのまま交わされた会話を聞いて、俺は聞き間違えなどではなかったのだと理解した。
その会話から察するに、月森もこの話は初耳だったらしい。
俺はどこか他人事のような気分で目の前で交わされている会話を聞いていた。その速さについていけない所為もあったが、言われたことが突拍子もなさ過ぎて、驚きを通り越して思わず呆然としてしまっていた。
不意にその会話が止み、二人の視線が俺に注がれた。何事かと思っていれば、君の意見を聞きたいと月森に言われた。
意見などと言われても、俺にはどう答えていいのかわからなかった。ウィーンで演奏することへの憧れはあったにしても、現実として考えたことなどなかった。
日本で行った月森のリサイタルのときでさえ分不相応だと思って躊躇したくらいなのに、一度も舞台に立ったことのない国での演奏会など躊躇どころか恐れ多いとさえ思ってしまう。
そう思って答えるべき言葉を探していた俺に、月森はどこか冷たい視線を向けてきた。その視線が意味するものを察しあぐねていると、月森は小さなため息を落として俺から視線をはずした。
急なことだし、まだ正式なものではないが考えておいてくれと言われ、俺に出来たのはそれに対する了承の返事だけだった。結局、俺はいいも悪いも何も返事をすることが出来なかった。
別の用事があるからと二人とはそこで別れ、見送った俺は一人、思考のドツボにはまることとなった。
俺の演奏を聴きに来たというだけでも驚きだというのに、その目的がウィーンでの演奏会の話だなんて、想像の域を遥かに超えていて思い付きもしなかった。
月森への話だというのならわかる。それまで行っていなかったリサイタルを日本で開催したとなれば、海外でもそれなりの地位を持ち、有名な月森のことを世間が放っておくはずがない。現に、目の前で交わされていた会話では、ウィーンでのリサイタルの話も持ち上がっていたようなことを言っていた。
だが、そこに俺の名前が入ることはありえないだろう。
日本で成功したから海外でもなんて、そんな生易しいものではないことくらいわかっている。その日本でさえ、役不足だとか、次はもっと有名な人との共演をと言う声が上がっていることくらい、俺だって百も承知だ。
そんな声に対し月森は、君以上の選択肢はないとそう言ってくれたが、それでも海外では俺を伴奏に選ぶことなど考えていなかったと思う。
月森は、この話をどう思ったのだろうか。
そう思って、似たようなことを月森に聞かれたことを思い出した。その答えに詰まっていた俺に、月森が向けてきたあの視線はなんだったのだろうか。その後もずっと月森は俺と目を合わそうとはしなかった。
冷たい視線も態度も、出会ったばかりの、意見が合わなくてお互いを理解出来ないでいた高校の頃を俺に思い出させた。
今になってあの頃と同じ態度で接せられるのは辛い。けれどそれ以上に、月森の感情をそこから読み取れなかった自分が悔しい。月森はその視線で俺に、何かを訴えていたはずだ。
何を言いたかったのだろうと思う。たぶん、俺のとった態度に対する何かだったのだろうとは思うものの、それが何かがわからない。俺は月森にあんな表情をさせてしまった理由を思い付くことが出来なかった。
そして俺は演奏会のことも月森のことも、何も答えを出せないまま打ち上げへと合流してしまった。
2009.10.12up