TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

海に浮かぶ雲39

 開演時間が近付き、俺たちは舞台袖へと移動した。
 客席は大勢の観客で埋められ、開演前のざわざわとした声が聞こえてくる。
 昨日とはまた違って見えるその舞台と客席に、否が応でも緊張感が高まっていく。
 でもそれは、嫌なものじゃない。
「ありがたいことに会場は満員だ。聴きに来てくれた全ての人が満足してくれるような演奏をしないといけないな」
 そう言って、月森はヴァイオリンを見つめている。
「あぁ。それに俺たちが満足できる演奏もな」
 きっと、自分が満足できない音楽では人を満足させることなんて出来やしない。
 一瞬、驚いたように見開かれた月森の目は、そうだな、と言って細められた。
「君と一緒に舞台に立てることを嬉しいと思う。共に音を作り出せることが」
 月森の台詞に、今度は俺が驚きの表情を向ける番だった。
 昨日、ここで言おうとして言葉にならなかった思いがあふれてくる。
 その思いを伝えようと口を開きかけたところで開演を告げるアナウンスが流れ始めた。舞台へと向かうように促され、言葉にならないまま会話は途切れてしまった。
 会場のライトがゆっくりと落とされ、それまでのざわつきが嘘のように静まり返る。
 舞台へと一歩踏み出す前に、目をつぶってひとつ大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
 目を開けると、ちょうど振り返った月森と眼が合った。
『行こう』
 声には出さなかったけれど、月森の唇はそう動いていた。だから俺はうなずくことでそれに答えた。
 舞台へと歩き出せば大きな拍手で迎えられ、一礼してから俺は椅子へと座る。
 拍手が止み会場が再び静寂に包まれると、ヴァイオリンを構える月森の衣擦れの音だけが微かに聞こえてきた。
 目の前に置かれた楽譜を確認しながら鍵盤へ指を置き月森を見遣れば、弓が弦の上に置かれたところだった。
 心の奥からあふれてくる想いがある。それは言葉にしなくてもこれからの演奏できっと月森に伝わるだろう。
 今、俺たちの演奏が始まろうとしている。


 張り詰めたように静まり返ったホールにピアノの音色が流れ、それを追うようにヴァイオリンの音色が重なる。
 それはとても自然に混ざり合い、ひとつの曲となってホール中に響き渡る。
 あふれる音色の中心にあるのは、月森のヴァイオリンと俺のピアノだけだ。


 月森の演奏は今日も冴えていた。
 今まで築き上げてきた技術と、積み重ねてきた努力がヴァイオリンの音となって表れ、それが惜しみなく観客へと向けられている。
 俺はそれを邪魔しないように、支えるように、月森のヴァイオリンに一番合うピアノを奏でていく。
 聴こえるその音色がとても心地よくて、俺は弾きながら観客の一人になっていた。
 誰よりも一番近くで聴くことの出来るこの席は、色々な意味で特等席だ。
 月森が紡ぎだす演奏の音色に魅入られ、ヴァイオリンを奏でるその姿に目を奪われ、いつまでも聴いていたいと思う。
 そして出来るならばいつまでも共に奏でていたいと、そう思いながら俺はピアノを弾いていた。


 トークや休憩を挟みプログラムに載せられた全ての曲を演奏し終え、惜しみない拍手の中、俺たちは舞台袖へと戻った。
 1曲1曲に送られた拍手が、このリサイタルの成功を物語っている。そして会場は、未だ鳴り止まない拍手に包まれている。
「すごい拍手だな」
 あまりの拍手に圧倒されながら月森へと声を掛ければ、まだ弾き足りないと言わんばかりにその目は舞台を見つめていた。
「アンコールだ」
 そう言った月森は、俺の手を掴むと舞台へと歩き出した。
 急に引っ張られてよろけそうになるが、それよりもまるで手を繋ぐようなこの状況に焦ってしまう。文句も抗議の声を上げることも出来ず、引っ張られるまま舞台へと歩を進めると、拍手は更に大きなものになった。
 観客から見えるか見えないかのところで手が離され、ほっとしながら先を歩く月森に着いて舞台の真ん中へと歩み出る。
 そこでお辞儀をすると、その拍手はまるで頭上から降ってくるかのように聞こえてきた。こんなにも大勢の拍手を受けたことなど、そう何度もある訳ではない。
 その拍手と歓声に、達成感と満足感で心の底から喜びがあふれてくる。そして、感謝の気持ちで心の中がいっぱいになる。
 聴いてくれた観客に、今まで支えてくれた全ての人に、そして、この舞台で共に弾くことを選んでくれた月森に。
 鳴り止まない拍手の中、俺はピアノへと移動し月森がヴァイオリンを構えると、その拍手の余韻を残して会場はまた静かになる。