TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

海に浮かぶ雲37

 セットしていた目覚ましがなる前に自然と目覚めは訪れた。
 とうとう、リサイタルの朝がきたんだ…。
 覚醒しきっていない頭に、それでも一番にそのことがぼんやりと浮かんできた。
 寝返りを打とうとして、けれどそれは隣に眠る月森に阻まれる。仕方なく絡んでいる腕をそっと解きベッドから降りると、その気配を感じたらしい月森の瞼が小さく揺れた。
 起きそうな月森をそのままベッドに残し、カーテンを思い切り開ければ眩しい陽射しが差し込こんできた。ついでに窓も開ければ少し冷たい風が流れ込んできて気持ちがいい。
 昨日は緊張の所為かなかなか寝付けなかったが、熟睡は出来たらしく寝覚めはスッキリとしていた。
「よしっ」
 大きく深呼吸すると、更に頭の中がクリアになり、自然と声が出ていた。
 受ける陽射しと風が、まるで昨日まで感じていた緊張感を取り除いていくかのように感じた。そして早くピアノを弾きたいという期待感へと変えていく。
「土浦…」
 ひとつ大きな伸びをしたところで背後から呼ばれ、振り返るとまだ少し眠そうな月森の目が、それでも真っ直ぐに俺を見ていた。
「おはよう、朝だぜ」
 顔に当たる陽射しが眩しいのか、月森は少し顔をしかめながらこちらへと歩いてくる。
「おはよう。いい天気だな」
 何度か瞬きを繰り返し、その眩しさにも慣れたらしい月森は窓から見える空を見上げている。
 雲ひとつない青空とはいかなかったが、澄んだ水色の空がそこには広がっている。
「こんな日は外で弾いても気持ちいいかもな」
 遮るものがなく、どこまでも広がっていく音色というのも悪くない。
「そうだな…」
 そのまま二人でしばらく空を眺め、広がる音色を心に思い浮かべていた。
 流れる風の音も、鳥のさえずりも、全てが混ざり合ってひとつの音楽になる。その情景を音符に変えた音楽を、俺たちは楽器を通して奏でている。
 それはとても素晴らしいことに思え、奏でることの出来る幸せを噛み締める。
 音楽を、響き渡らせたい。音楽で、満たしたい。
「今日は音が良く響きそうだ」
 この世界には音が満ちている。音楽が、満ちあふれている。


 支度を済ませ、俺たちは一緒に会場へと向かった。
「本当に家に帰らなくて大丈夫だったのかよ」
 すでに会場へと向かう車の中でこの台詞は今更だとは思いつつ、俺は昨日の夜にも聞いたことを繰り返し聞かずにはいられなかった。
 音合わせが終わったら、月森は家に帰るものだろうと思っていた。それなのに、家に寄って荷物は全部持ってきた、の一言でそのまま俺の家に泊まったのだった。
「あぁ」
 わかってはいたものの、あっさりとそう返されて俺は思わず苦笑いをこぼした。
 考えてもみれば、数々の演奏会をこなしている月森にとっては、必要なものさえ揃えてしまえばどこから出掛けても支障はないのだろう。むしろ、海外や地方での公演も多い月森は、自宅から出掛けることのほうが少ないのかもしれない。
 つい、基点が自宅である自分を基準にして考えてしまったが、月森にとっては別に普段と変わらないことなのだろう。
「ならいいけど…」
 つぶやくような俺の言葉で短い会話は終わった。そして車内には沈黙が訪れる。
 ほんの少し、張り詰めたような空気が広がっているように感じる。けれどそれは重苦しい訳でも嫌な感じがする訳でもなかった。
 それは、お互いが演奏へと集中するために必要な空気と時間だったのかもしれない。
 俺はその車内で、頭の中を流れる音色をずっと追っていた。それは月森のヴァイオリンだったり、俺のピアノだったり、そのふたつが重なった音色だったりと様々だったが、どれも俺の心を震わせるような音色だった。
 そして言葉は交わされないまま、車は会場へと到着した。