『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲34
さっきまで頬に触れていた手は、今は話すまで離さないと言わんばかりに俺の手をぎゅっと握り締めている。並んでソファに座るその距離が必要以上に近い気がして少し離れようとすると、月森は不機嫌な表情を隠しもせず俺に向けてくる。別に離れたい訳でもないが、話をする距離ではないだろうとも思う。
黙っているとその距離が更に近付いてくるような気がして、仕方なくそのまま話し始めることにした。
「さっき、例の電話が掛かってきた」
そう言った途端、月森の表情は不機嫌というよりも険しいものに変わった。
「初めて、話がしたいと言ってきたから話をしたんだが…」
そう言って、俺はさっきまでの電話のやり取りを簡単に説明した。
説明しながら、これは話をしたとは言わないよな、なんて思っていた。俺はただ、話を聞いていただけに等しい。
「切るタイミングを逃していたんだが、月森が来て助かった」
握られたままの手をそっと握り返すと月森の表情がほんの少し緩められたが、まだ何かを考えるように眉間には皺が刻まれている。
「お前こそ、何かあったのか?」
言いながらその眉間に指で軽く触れる。
「眉間に、皺寄ってるぜ、さっきから」
自覚はあったらしい月森は、微かに視線をそらして小さくため息を落とした。
月森が不機嫌な表情を見せることはよくあることだが、それでもどこかいつもとは違う気がして気になった。
それは今話した電話のことが原因のひとつであることには違いないが、それだけではないような気がする。
「相手のことを知らないのはこちらの不利になると思ったから、彼女の情報を集めていたんだが…」
その表情は変えず、月森は淡々と話し始めた。
考えてみれば、俺は相手のことをほとんど知らなかった。別に知りたいとも思っていなかったから、名前すらさっきの電話で知ったくらいだ。
「彼女の電話の目的は、俺ではなく君だったようだ」
月森の言っている意味がよくわからなくて思わず眉をひそめた。
その表情で俺の疑問を察したらしい月森は、何か嫌なことを思い出したかのようにもう一度ため息を落した。
「だから彼女が好意を向けていたのは君だったということだ」
苦々しく言われたその言葉の意味が、俺には一瞬わからなかった。
「…って、それどういうことだよ」
話が見えなくて思わず声を上げてしまったが、何がどうなったらその考えに行き着くのか全くわからない。
「そのやり方を間違えていたんだろう」
前に俺が言った台詞をお返しとばかりに使われる。そんな、説明をするのも嫌だと言わんばかりの月森の言葉は少し刺々しい。
「それだけじゃわからないって…」
なんの説明もなくそう言われても察するような何かがある訳でもなく、電話の目的が思っていたものと全く逆になってしまった理由など俺には見当がつかなかった。
だから俺はそらされたままだった視線を合わせるようにして詰め寄り、月森をじっと見つめた。
その視線を受け諦めたらしい月森は、あからさまに大きなため息を落としてみせた。
「俺への連絡は携帯の着信を拒否しただけで諦めている。電話もメールも、あの日一日だけだ。でも君には何度も何度も電話を掛けている」
それは理由にならないと思ったが、ここで口を挟むと続きは話してくれないような気がして黙っていた。
「それに、君のことをだいぶ前から色々と調べていたらしい。演奏会にも何度か行っていると聞いた。理想の音を奏でるピアニストを見つけたと話していたそうだから、偵察目的で聴きに行っていた訳ではないということだ」
そう言われるとそれは理由になっているような気もするが、けれどまだ腑に落ちない。
「じゃあ、あの電話はどういうことなんだ?」
もし仮に俺に好意を向けているのだとしたら、俺にあの電話を掛けてくること自体、間違っているのではないだろうか。
「たぶん、君に電話を掛けても正体はばれないと思っていたんだろう。電話が掛かり始めた頃、俺は日本に居なかったし、俺はすでに知り合いだったからばれる可能性が高い」
その言葉に、俺はさっきの電話に感じた妙な違和感を思い出した。
いつものように『別れて』という言葉は一度も出てこなかったし、俺たちの関係を否定されたといっても直接的ではなく、そうともとれるといった感じだった。そして今まで掛けてきた電話の声とは少し違うトーンで話していたような気がする。
俺は相手が何をしたかわかって話をしていたが、向こうはばれていないつもりで話していたということなのだろうか。
「それに、秘密を握っているのだと脅すには、俺よりも君のほうが効果的だと思ったのだろう」
確かに、俺はずっと言い返すことをしなかった。言い返したのは月森だ。
色々と情報を集めたらしい月森が嘘を言っているとは思えない。でも、そこから導き出されたその答えはどこか釈然とせず、だから理解も納得も出来ないでいた。
2009.3.19up