『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲33
電話で呼び出された月森とは会場で別れ、用事のない俺はそのまま家に帰った。本当ならそのまま月森と一緒に最後の音合わせをする予定だったが、月森が居ないのならばひとりで練習するしかない。練習していればそのうち来るだろうし、来られないなら連絡が来るだろう。
演奏順に一通り弾き終わったところで携帯電話に着信があった。
ディスプレイを見れば見たことのない番号が表示されていたが、あまり気にせず出てみると少し遠慮がちな女性の声が返ってきた。
一瞬、誰だかわからなかったが、名乗ったその声には嫌というほど聞き覚えがある。それは例の電話の声だ。
今までのように言いたいことを言うだけ言って切る訳でもなく、きちんと名乗り、そして話をしたいと言ってきた。
月森の曲での噂が広まった時点で着信がなかったからすっかりその存在を忘れかけていたし、それにまさかこんな風に正当法で掛けてくるとは思ってもみなかった。
リサイタルを明日に控えたこのタイミングで掛けてくるのもどうかと思ったが、とりあえずその話とやらを聞くことにした。この問題が解決に繋がるのであれば、ここでその申し出を断る理由はない。
そして話し始めたその内容を、俺はただ黙って聞いていた。
聞こえるその声は今までのように感情的なものではなく、まるで作ったようにおとなしくて少し違和感がある。
そして、ためにならない、相応しくない、似合わない等、そんな内容をどこか遠回しに話している。名前こそ出してはいないが、それは月森との関係を否定しているように受け取れた。
よくもここまで思い付くものだと思うほどの理由を並べられ、俺は怒りなど通り越して呆れてしまった。
「あれこれ言うのも思うのも勝手だけど、それを俺に言ってどうしたいわけ?」
そう言うと、今度は取り繕うかのような言葉を並べてきた。そして今度は月森と俺の音楽の違いを懇々と説明しだした。そんなことを俺に言ってきて、何がしたいのだろうかと思ってしまう。
「人に言われなくたって俺たちの音楽が正反対なのはわかっているさ。それこそ高校の頃からな」
だからこそいがみ合いもしたし、だからこそ歩み寄ることもした。物事は最初から全てうまくいくわけじゃない。俺たちは俺たちなりの時間を掛けてここまできたのだ。
こんな風に電話をかけてくる暇があるなら、その時間をもっと有意義に使うべきだ。こんな自分勝手な思いを押し付けたって、思い通りになる訳がない。
あまりにも同じ話の繰り返しで、俺は途中から半分以上聞き流していた。途中で切ってやろうかとも思ったが、どうせまたすぐに掛け直してくるのだろうと思うとそれもめんどくさい。電源ごと切ってしまえばいいが、月森から連絡が来るかもしれないと思うとそれも出来ない。
いちいち言い返すのもうっとうしくなってきた頃、来客を告げるチャイムが聞こえてきた。俺は電話を持ったまま玄関へと向かうが、電話越しの相手にはチャイムの音も聞こえなかったらしい。
「人が来たから、話がこれだけだって言うなら切るぜ」
いい加減、この電話を終わらせたくてその言葉を遮ると、まだ話は終わってないと必死に言い募ってきたが、俺は無理やり通話を終わらせてそのまま電源も切った。
その携帯を握り締めたまま反対の手で玄関の扉へと手を掛ける。こんな時間に何の連絡もなく家へと来るのは月森くらいだろうと確認もせず扉を開けると、そこには予想通り月森が立っていた。
その姿を見た途端、張り詰めていたものが解かされていくように心がほっとした。たった数分であっただろう電話のやり取りは、思った以上に俺の心を疲れさせていたらしい。
「土浦、何かあったのか…」
俺が何を言う前に、月森は真剣な表情を向けてくる。
何故すぐにわかってしまったのだろうかと思いながらとりあえず招き入れると、不意に月森の手が俺の頬へと伸ばされた。
「俺を見てその表情を隠したが、どこか思い詰めたような表情をしていた。何があった?」
触れる月森の手は、ほんの少し冷たいがやけに安心する。そして、射抜かれるのではないかと思うほどに真っ直ぐ見つめてくる月森の目は真剣だ。
その行動が、その表情が俺を嬉しくさせる。こんなにも真剣に想われているのだと、心を満たす。
「隠したんじゃない。月森の顔を見てほっとしたんだ」
俺はその肩口にそっと顔を埋め、小さくつぶやいた。