TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

海に浮かぶ雲32

 そして、本番は明日に迫り、下見を兼ねて会場へと足を運んだ。
 舞台へと足を踏み出すと、自分の足音がやけに響いて聞こえたような気がした。
 このホールで演奏を聴いたことは何度かあった。だから客席から舞台を見たことはあったが、舞台から客席を眺めるのは初めてだった。
 客席から見る舞台は小さいとさえ思うのに、立ってみれば驚くほどに広い。更に舞台から見える客席は視界に収まりきれないほど広く、まるで壁のようにすら見える。
「誰も居ない客席を眺めていると、不思議と心が落ち着くんだ」
 舞台の中央に立ち、月森は真っ直ぐ客席を見つめている。
 同じように見つめている俺は、心が落ち着くどころか緊張で心臓が早鐘を打ち始めた。
 電気の付けられていない客席は薄ぼんやりとしていて、まるでどこまでも広がっているかのように見える。そんな静かな客席にはまだ誰も座っていないというのに、たくさんの視線を浴びているかのような錯覚に陥った。
「俺には緊張感が高まってくとしか思えないけど…」
 その心臓の音は、落ち着くどころか隣にいる月森にも聞こえてしまうのではないかと思うほどだ。
「お前は緊張とか、しないのかよ」
 俺とは対照的なほど冷静な顔をしている月森を見ていると、思わずそう聞かずにはいられない。
「緊張というよりは期待感のほうが強いかもしれない。俺はここでどれだけのヴァイオリンを弾けるだろうか、俺のヴァイオリンはどれだけ響くだろうか、と」
 月森のその感覚はすでに響いた音色を追っている。それなのに俺は、どれだけ響かせることが出来るだろうかと考え、まだ響く自分の音を探せないでいた。
「だから落ち着くというより、覚悟が決まる、と言ったほうが正しいかもしれないな」
 真っ直ぐに客席へと向けられる月森の視線は真剣そのものだ。
 それは今まで練習してきたことを、今の自分が持つ最大限の実力を、本番で発揮するための覚悟なのだろう。ここまできたらやるしかない、という、緊張感を乗り越えるための覚悟とは少し違う。
 それは月森と俺の経験の差なのか、それとも性格の差なのか。
 それでも俺にだって、このホール中に俺のピアノを響かせたいという思いはある。
「確かに、これだけ大きな舞台で演奏するんだ。いい音色を響かせたいよな」
 緊張感を乗り越えるための覚悟が、俺の中でも少しずつ違うものに変わっていくのを感じる。
 音楽を奏でたい。響かせたい。そしてそれを聴いて欲しい。
「明日が楽しみだな」
 その視線を客席から俺へと移した月森の表情は、何かを期待しているかのように明るい。
「とうとう明日、なんだよな…」
 明日、この舞台に立つのだと、ここで演奏するのだと、そう思って緊張してしまうことはやっぱり止められない。けれど焦燥感にも似た激しい心臓の鼓動は少しずつ落ち着き、程よい緊張感へと変わっていく。
 俺はもう一度、端から端まで客席を見渡し、そして目をつぶってゆっくりと深呼吸をした。
 響く音色と、拍手の音が、聞こえた気がした。
「月森、あのさ…、…いや」
 言いかけて、でもその気持ちがうまく言葉にならなくて続く言葉を飲み込んだ。
「明日はいい演奏会にしような」
 月森へと向き直り、俺はそっと手を差し出した。
 本当は他に伝えたい気持ちがあった。けれど今、その気持ちを言葉にするには早い気もする。きっとリサイタルが終わった後なら、その気持ちをうまく言葉にして伝えることが出来るだろう。
「あぁ。よろしく頼む」
 差し出した手の意図を察して、月森の手が俺のそれに重なる。
 ぎゅっと握り締め、交わす握手に言葉にしなかった気持ちを込める。
「こちらこそ、よろしく」
 俺の気持ちは月森に、伝わっただろうか。



2009.3.8up