『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲31
本番まであまり時間はなかったが、その曲の仕上がりは順調だった。弾き込めば弾き込むほど心の奥深くに浸透していくかのようなその旋律は、弾く度に違う想いが湧き上がってくるかのように感じる。
悲しく切ない想いでいっぱいになるときもあれば、心が落ち着くような優しい気分になってほっとするときもある。それはまるで正反対な気もするが、この曲にはそのどちらの面も混在しているかのようだった。
けれど月森と合わせるときには、決まってどこか切ない旋律となった。それは最初に感じたイメージが切なかった所為かもしれないし、月森のヴァイオリンが切ない音色で奏でられているからかもしれない。
月森が弾いたあの音色とは少し違う俺のピアノと、ピアノで奏でたときとはまた少し違う響きの月森のヴァイオリンと、そして曲に込められた想いにお互いが共鳴して切ない旋律が生まれる。
切なく優しい旋律に、愛おしさを感じて心が捉われる。
何を言った訳でも言われた訳でもなく、俺たちは自然と同じ音色を奏でていた。
この曲については関係者のみに伝えられ、リサイタルで演奏することについても特に公表はしなかったが噂はいつの間にか広まっていた。
どこからどう広まったのだろうかと不思議に思ってしまうが、それだけ月森蓮の初リサイタルが世間で注目されているということなのだろう。
期待のこもった噂を耳にする度、それはもうすぐ本番なのだという実感になり、ここまで大きな舞台に立つことが初めての俺にとってはプレッシャーにもなる。
それなのに月森は何を言われてもどんなに騒がれても特に気に留めていないようだった。
そんな態度は相変わらずで、高校のコンクールの頃から変わっていない。あの頃はそんな月森を見て訳もなくイライラしていたが、今は自然と俺の心も落ち着くような気がした。
月森にとってプレッシャーはごく当たり前にかけられてきたものなのかもしれない。それこそ押しつぶされそうなほどの思いを子供の頃から何度もしてきたのだろうし、だからこそ自らに課す目標が人一倍高いのだろう。それを乗り越え、こなしてきた月森の精神力に俺が及ぶはずもないが、俺だって負けてはいられない。
期待以上のものを目指し、いい演奏を心掛けていれば、プレッシャーなんかなんでもない。
それでもやっぱり、本番に向けて緊張感が高まっていく。
この頃になると、合わせる音色は何を言わなくてもお互いが求めるものになっていた。お互いがお互いの音色に合わせて弾いていく。どちらに偏るでもなく、それは文字通り二人で奏でる音色だった。
「本番が近付くと、まだまだ足りないと思うことが多いのだが…、今は早く舞台の上で弾きたいと思う。この音色を、ホール中に響かせたい」
月森は、少し熱っぽい目でそんな風に言ってくる。そう言われるのは嬉しくもあり、ほんの少し照れくさい。
「君となら、本当に心から望む音色を奏でられると思った。ただ巧く弾くだけではなく、誰かのために音楽を奏でたい」
月森が望む音色は俺が望む音色でもあった。そしてその音色を求めてたくさんの人が聴きに来る。
「君のために弾きたい。土浦のピアノと一緒にヴァイオリンを弾きたい」
だから俺も、月森の音色を求める人のために、そしてその音色を奏でる月森のためにピアノを弾こうと思う。
「そして俺のヴァイオリンに重なる、君のピアノが聴きたい」
二人で奏でる音色に、二人で作り上げていく音色に、心が満たされていく。