『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲29
その触れる指先が妙にくすぐったくて、微笑むように見つめてくる視線が妙に照れくさくて、それは嫌なものではないのに、ないからこそ余計に気恥ずかしくて俺は握り締めたままだった楽譜へと視線を動かした。「そういえば、タイトルは決まっていないのか?」
誤魔化すようにその楽譜を眺めていると、タイトルらしきものがどこにも書かれていないことに気付いた。
「あぁ、なんとなく付けかねているんだ。曲のイメージは“くも”なんだが…」
「くも?」
そう言われてふたつの漢字を思い浮かべたが、どちらも曲のイメージに繋がらない。
「くもと言っても空の雲のほうだが、でもこの曲は水に映った雲のイメージだ」
月森はもう一度ピアノへと向きを変え、片手でそのメロディを弾き始めた。その、まるで流れるかのような指の動きを、俺は無意識に見つめていた。
「水面に白い雲が揺らめいていた。そんな景色を見たときにこのメロディが浮かんできたんだ」
月森の言葉にその情景を思い浮かべるとそれは聴こえるメロディに重なり、綺麗なのにやっぱり俺を切ない気分にさせた。
「水は青く見えてもやっぱり空ではない。でも雲は、水の中に浮かんでいた」
弾いている月森の指が突然止まり、俺は月森へと視線を上げた。
「ただ水面に映っているだけなのだとわかっていても、その雲は水の中にあって欲しいと思った。あのときはなぜだかわからなかったが…」
月森はこちらには振り向かず、俯くように視線を落とすとまたその曲を奏で始めた。
少し切なくて、でも優しくて綺麗な旋律は、まるで月森自身をそのまま音色にしたかのように感じる。
「俺はそこに、俺たちの関係を重ね合わせたのかもしれない」
月森のその気持ちは、俺にもなんとなくわかるような気がした。
雲は空にあるもので、水の中にあるものじゃない。俺たちの関係も、水の中にある雲と同じようなものなのかもしれない。
「水は、雲のあるべき場所ではない…」
ピアノの音にかき消されそうなほどの月森のつぶやきが、それでも俺の耳には微かに届いた。
あるべき場所という考え方をすれば、俺たちの関係はその場所から少しずれている。
外れることを望んだのではなく、望んだ場所がたまたま外れていただけだと言ったら言い訳になるのかもしれないが、外れることがわかっていても、望むことは止めなかった。
「でも、空にあっても、水の中にあっても、雲が雲であることは変わらない」
俺たちだって、変わらない。
「そうだろう」
俺の言葉に振り返った月森は驚いたような表情をしていたが、それはすぐにやわらかい微笑みへと変わった。
「…そうだな」
この関係が俺たちにとってどんなに大切で手放せないものでも、世間から見ればそれはやっぱりあるべき場所ではない。
それがわかっているからこそ切なくなり、それがわかっていても愛しさはあふれてくる。
きっとこの曲にはそんな想いが詰まっているのだろう。だからあんなにも止まらない涙があふれたのだと思う。
この曲に込められた月森の想いが俺を切なくさせ、この曲に込められた月森の想いに俺は涙した。
でもそれは切なさだけの涙ではなかったのだと、俺は改めて感じていた。