『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲27
そしてリサイタルに向けての準備も大詰めになってきた頃、話があると言って月森が家を訪れた。「なんだよ、話って」
慣れたようにソファへと腰を下ろす姿は見慣れているのに、その顔は何かを考えているように真剣でいつもと少し違う印象を受ける。
昼間、音合わせを兼ねた打ち合わせで会ったときにはそんな素振りを見せなかったから、きっとプライベートな話なのだろうとは思ったが、何の話なのかと少し身構えてしまった。
「リサイタルの曲なんだが、今からもう一曲増やしても大丈夫だろうか」
そう言いながら、月森は鞄の中から数枚の楽譜を取り出して俺に渡してきた。
そんな話なら打合せのときに出すべきだったのではないだろうかと思いつつ、月森のことだから何か考えがあるのだろうと黙ってその楽譜を受け取った。
ファイルに挟まれたその楽譜にはタイトルがなく、書かれた音符を追って頭の中を流れるメロディには聴き覚えがなかった。
けれどその曲は、どこか懐かしいような気持ちにもさせた。
「たぶん大丈夫だとは思うが…。でもまた急だな…」
ざっと見ただけでも決して簡単そうな曲ではなかったが、そんなに長い訳でもないし今から弾き込めばなんとかなりそうだと思う。
「別に今からプログラムに組み込もうと思っている訳ではないんだ。でも、出来ればアンコール曲に追加したいと思っている」
濁した語尾に疑問を感じ取ったのか俺が聞く前に月森はそう説明してきたが、それよりも俺には他に疑問に思うことがあった。
「それは構わないけど、この…」
タイトルも作曲者もわからないこの曲について聞こうと発した言葉は、手掛かりを探して譜面を追っていた視線がその文字を捉えたことで中途半端に止まった。
驚いて月森へと顔を上げると、なんだ、とでも言いたそうな顔で続きの言葉を待っている。
「この曲、もしかして月森が書いたのか?」
確かめるように聞きながらもう一度楽譜へと視線を戻せば、そこには確かに“Len Tsukimori”と小さく書かれていた。
それが自分のものだと表すための記名ではないことは、その名前の書かれ方で想像できた。
「あぁ…」
まるで口籠るような短い返事のあと、月森はほんの少しだけ視線をそらした。その表情は照れているようにも見える。
クラシックばかりを弾いてきた月森が、自分で曲を書くなど想像していなかった。これまでだって、月森自身が曲を書いたことは一度もない。
「いつの間に書いてたんだよ」
もう一度よく楽譜を読めば、とても綺麗な旋律がそこには書かれている。
「自分で曲を書くことなどないと思っていたが、心に浮かんでくるメロディがあって、それを形にしてみたかったんだ」
言いながら立ち上がると、月森はそのまま練習部屋へと向かって歩き出した。ちらりと振り返った視線に誘われるまま、俺は黙ってそれに着いて行った。
月森は部屋に置かれたグランドピアノにゆっくりと手を伸ばす。
さっきまで俺が弾いていたピアノはいつでも弾ける状態で、まるで月森が来ることを待っていたようにも見える。
確かめるように鳴らした音が部屋に響いた。
そのまま何も言わず流れるように弾き始めたその曲は俺を圧倒し、俺は弾いている月森の後姿を見つめたまま立ち尽くすしかなかった。
まるで身体の中にピアノがあるのではないかと思ってしまうほど、全身に音色が響き渡る。
その音色は穏やかに流れるような優しい旋律なのに、なぜか俺をとても切なくさせた。
不意に涙が出そうになって、俺はそれを耐えるためにぎゅっと目をつぶり奥歯を噛み締めた。
それが切なさからきたものなのか、違う感情だったのかはわからないが、心の奥の奥の方から沸き上がってくるようなその涙は、結局耐えることが出来ずに俺の頬を一筋伝い落ちた。