『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲26
月森の一言が功を奏したのかどうかはまだわからなかったが、あれから一度も電話は掛かっていない。相変わらず忙しい日が続いたが、それは充実していて楽しい平穏な毎日でもあった。
噂が流れ出す様子もなく、さすがにそんな暴挙には出なかったのだと少し安心する。
月森はこの電話の一件について何かを考えているようだったが、俺が何を言ったところで月森の行動を止めることは出来ないとわかっているから、とりあえず気付いていないふりをしていた。
月森の言う“努力”をしてくれるのなら、行動を起こす前に何か言ってくるだろう。諦めた訳ではないが、もしもまた事後承諾だったとしても、それはそれでいいような気にさえなっていた。
悩んだところでどうなるものでもなし、もう、どうにでもなれという感じだ。
だから俺もあれこれと考え込まないようにしていた。
けれど今までのことを考えるとこのままあっさりと退くことはないように思っていたのか、無意識に神経は張り詰めていたらしく、その気持ちは音色に表れた。
いくら弾いても心に響かない。まるで音符をただ追っているだけのようだ。
そう思って、せっかく見付けた俺たちだけの音色を、俺はまた心の奥底に隠そうとしていたらしいと気付く。
考えないようにと思うそのことが、無意識にその音色から遠ざけてしまっているようだった。
だからピアノを弾くときは頭の中を空っぽにし、月森のことだけを考え、求める音色だけを追うことにした。すると心は自然と落ち着き、心を響かせる音色になる。
そうして俺の演奏は、今まで以上に感情豊かなものへと変わっていった。
月森以外の人と一緒に演奏するときはさすがに弾き方を変えていたが、それでも俺のピアノはその時に求める音を自然と奏でられるようになっていた。
月森への想いを込めた音色は、本当ならば一番に気を付けなければいけない音色でもあった。
でも、もうこの気持ちを隠すことは止めた。自分の気持ちに素直になろうと思った。
それが俺の演奏にとってプラスに働くのなら、悪いことではない。中途半端な音を出すくらいなら、思いっきり想いを込めて弾いてやる。
想われているのだというその気持ちに応えるために、俺はこの音色を奏でていきたいと思う。
それでもしまた電話が来るというのならば、今度こそ俺も月森のようにハッキリと口に出して言い切ってやろうと思う。
そんな俺の決心は決行されることはなかったが、変わりに日野から大丈夫なのかと心配された。
月森とのリサイタルが決まったときにも連絡があり、そのときにもなんとなく遠回しに心配されていたが、俺たちの音色が急に変わり過ぎたことが気になったらしかった。
日野や電話のことを考えると、わかる人にはわかってしまうのだと思い知らされたが、それでもやっぱり俺はこの音色を奏でていきたいと思った。
「今の俺が奏でられる一番最高の音だからな」
そう言うと、日野は驚いたように目をぱちくりさせていた。
「まぁでも、土浦君らしい音色だよね」
そして納得したようにしみじみと言われると、褒められているんだか呆れられているんだかわからなくなる。
「でも、月森君のヴァイオリンがあんなにやわらかい音色を奏でるとは思ってもみなかったなぁ。更に追いつけない人になっちゃった感じ…」
少し拗ねたような口調の日野の言葉には俺も同意する。
どんなに近付いたと思っても、月森はいつだってずっと先にいる。同じ音楽を目指していても、隣に立っているのだとしても。
「きっとまた本番までにもっとビックリするような音色になっちゃうんでしょ、二人とも。リサイタル、楽しみにしてるよ。期待してるんだから」
もう何も心配しない、とでも言いたげな日野の笑顔に、俺も任せとけ、と笑顔で返した。
2009.2.7up