『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲23
即興で合わせてきた月森との演奏は、今までに感じたことがないほどの充実感と満足感のなか、その余韻だけを残して終わってしまった。それは夢でみたときと同じで、弾き終わってみればなぜ忘れていたのだろうと思ってしまう。
いや、忘れていたというよりは、無意識に隠していたといったほうがあっているかもしれない。
この音色の根源にある想いは、知られては、気付かれてはいけないことだ。
「見付かったな」
そう言って微笑んでくる月森に、けれど俺はどんな表情を返していいのかわからなくて思わず戸惑っていた。
心のどこかで、この音色を奏でていいのかどうかまだ迷っている。
「止めるなと言ったのは君だ」
そんな迷う心を見透かすように、返事すらせずにただ見つめていた俺に、月森は真っ直ぐな言葉を突きつけてきた。
「それとこれは…」
「違うか? でも俺はもう、いつでも、どんなときでも、君を想う気持ちを止めることなど出来ないと思う。それが例え、君の望んでいることではなくても」
月森は言いかけた俺の言葉を遮り、真っ直ぐな、それでも何かを押さえ込むかのような言葉を続けた。
「でも、月森の弾き方じゃないだろう」
今の月森の弾き方が、出会ったばかりの頃のような技術だけを前面に押し出したものではないにしても、それでもこの弾き方はソリストとしての月森蓮が弾いてきたものとはあまりにも違うものだ。
「君がこれまでの演奏を納得していない、何かが足りないと言ってきたとき、俺は自分に足りないものを考えてみた。そうしたら出会ったばかりの頃、感情はないのかと君に言われたことを思い出した。そんな俺の演奏が、君の弾き方まで変えてしまっているように思った」
そんなことはないと言いかけた俺の言葉を、話は最後まで聞けと言わんばかりに制止してくる。
だからヴァイオリンを置いて近付いてくる月森が話し始めるのを俺は黙って待っていた。
「独奏ならともかく二人で演奏するというのに、俺は自分の弾き方をあまり変えていなかったことにも気付いた。それでも君は俺の音に合わせて弾いてくる」
同じ舞台に立つことはなくても月森とは何度も合わせてきたし、月森の演奏も何度も何度も聴いてきたから月森の弾き方は自然と憶えていて、それに合わせることは意識的にではなかったように思う。
「でもそれは、二人で作る音色とは少し違う。だから、君の音色に一番合う弾き方を俺が選んだらどうなるだろうと思っていた。さっきの演奏で、俺はそれを見付けた」
そう言った月森の顔はやけに晴れやかで、何の迷いもない。
「確かに想いのまま弾くことは俺の弾き方ではないし、今まで弾いてきた音ではなくなることもわかっている。だが土浦と二人で奏でるのなら、俺はこのヴァイオリンの音色に想いを託したい」
月森の考えは自分に忠実で躊躇なく真っ直ぐだ。でも本当は、月森だって躊躇してない訳でも答えを簡単に出した訳でもないはずだ。
「この想いのまま、舞台で弾いてもいいっていうんだな」
この弾き方で、この音色でいいというのならば、俺は精一杯の想いを込めて弾いてやる。
そして重なり合うふたつの音色が、奏でる俺たちだけではなく、聴いている人全てを幸せにするような最高の音楽になれば嬉しい。
「あぁ。俺たちにしか作り出せない音色を奏でたいと思った。だからこそ君と一緒にやりたいと思ったんだ」
真っ直ぐな、本当に真っ直ぐな視線が、月森の本気を俺に教えてくれる。
「感情的な弾き方だと、最初に文句を付けたのはお前だってこと、忘れるなよ」
感情がないと言った出会ったばかりの俺に対し、月森からは感情だけで弾いているとよく言われたものだ。それが今では、その感情のままに弾けと言ってくるのだから、なんだか可笑しい。
「そんなことも言っていたな」
そう言って笑う月森をこんな風に変えたのは俺なのだと、自惚れてもいいのだろうか。これからも俺の存在が、月森が変わっていくきっかけになれればいいと思うのは驕りだろうか。
いつになっても変わらない、この揺るぎない真っ直ぐに向けられる視線の先に、俺はずっと立っていたいと思う。