『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲21
俺はピアノを弾いていた。そこにヴァイオリンの音色が重なる。
奏でる旋律は、耳からではなく心に直接響き渡る。
それはとても穏やかで安らかな気持ちにさせてくれる。
どこまでも広がっていく音色に包まれて、俺の心が何かを掴む。
あぁ、そうか。足りなかったのはこれなのだ。
どうして俺は、忘れていたんだろう…。
弾き終わった曲と同時に目を開けると、そこは月森の腕の中だった。
まだ焦点の定まらない視界に、月森の顔がぼんやりと映る。
「おはよう」
そして声を掛けられ、思考が浮上する。
「おは、よう…」
声を出して、ピアノを弾いていたのは夢だったのだと気付いた。そういえばやけに、鍵盤が軽かったような気もする。
何度か瞬きを繰り返し視界がハッキリしてくると、月森は少し困ったような表情で俺を見ていた。
「どうかしたか?」
その表情の理由がわからなくて声を掛けると、その表情を隠すかのようにほんの少し視線が逸らされる。
「いや…。昨日は…、その、大丈夫だっただろうか…」
何のことを言っているのだろうと昨日のことを思い返し、言葉を探すようなその口調と思い出した記憶で月森の言いたいことを察した。
「って、聞くなよ、そんなこと」
思い出すだけで顔に熱が集まった気がして、抱え込まれた腕の中へと顔を隠した。
「す…」
「あと、謝るなよ」
そして何かを言いかけた月森の言葉を遮るように、俺は早口でそう告げた。
それが月森の気持ちなのだとわかっているから。それを俺も望んでいるのだから。
「好きだよ、蓮」
す、に続く言葉ならば、こっちのほうがいい。
「好きだ、梁太郎…好きだ」
そう言ってぎゅっと抱き締めてくる腕は、まるで離さないと言わんばかりに強い。
だから俺は、おとなしくその腕に抱き込まれていた。
「ピアノを弾いている夢を見た」
その心地好いぬくもりの中で、ふと、ついさっきまで見ていた夢を思い出す。
「俺たちの演奏に足りないものを見付けたような気がしたんだけどな…。思い出せない」
月森と合わせても足りないと、違うと思う何かに夢の中の俺は気付いたような気がするのに、それが何だったのかどうしても思い出せない。夢の中で掴んだはずの何かを、目覚めと同時に夢の中へと忘れてきてしまったようだ。
「ピアノを弾いたら思い出すのではないか」
そう言う月森の言葉は確かに当たっているかもしれないが、とりあえず思い出そうと耳を澄ましてみてもその音色は聴こえてこない。
そういえば耳ではなく、心で聴いていたような気もする。
「そうかもな…」
心で聞こうと目をつぶり、俺は手を伸ばして宙でピアノを弾いてみる。
俺のピアノに重なる月森のヴァイオリンが作り出す二人の音色は、これまでの練習で弾いたものとも聴いたものとも違ったような気がする。けれど何が違ったのだろうか。
「合わせてみるか?」
その声に目を開いて月森へと視線を向けると、時計へと目を向けて何かを考えているようだ。
「時間、大丈夫なのかよ」
俺の予定は午後からだから問題ないが、月森が時計を見ているということはそんなに余裕はないということなのだろう。
「1時間くらいなら大丈夫だ。合わせてみよう」
そう言った月森の顔はもう、最高の音を求める演奏家の顔になっている。
「そうだな」
考えても思い出せないのならば、行動あるのみだ。忘れてしまった何かを、二人で合わせれば思い出せるかもしれない。