『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲18 *
「君の家に、行ってもいいだろうか」少し遠慮するような口調でそう言われたのは、日野のコンサートを聴きに行った帰り道だった。
リサイタルの開催が決まり、そして例の電話が再開されたこともあり、連絡を取り合うことはあっても仕事以外で逢うことは少なくなっていたから、月森が俺の家に来るのは久し振りだった。
「別に構わないぜ」
そう答えると、月森の表情は安心したような微笑みに変わった。
「でもなんか、こうやって話すのも久し振りな気がするな」
別に仕事以外の会話が全くなかった訳ではないが、それでもこんな風に周りを気にせず話すのはやっぱり久し振りなのかもしれない。
プライベートで逢う時間だけを考えると実際は今までとたいして変わりはない。けれどそれまではなかった仕事で会う時間が増えたことで、逆に二人きりの時間が少なくなったように感じるのだろう。
そうなるであろうことは予想していたが、こうやって二人きりになると改めて実感する。
「傍に居るのに触れられないのは…少しだけ辛いな」
つぶやくような月森のそんな言葉が聞こえて、俺は思わずその歩みを止めて月森を振り返った。
私情など、バッサリと切り捨てるタイプだと思っていた。だからそんな風に考えているとは思ってもみなかった。
「おかしいか、俺がこんな風に思うのは」
きっと驚きの表情で見ているのであろう俺に、月森は自嘲気味の笑みを見せる。
あまり見たことのないその表情に、俺の心臓はゆっくりと高鳴りだす。
「けれど、こんな風に思うのは君だけだ」
今度は微笑んでみせる月森のその表情は優しさであふれているのに、なぜか俺の心を切なくさせた。
普段の月森が見せる、ともすれば無表情とさえ思えるその表情の下に、本当はこんな感情を持っていることに俺は気付いていなかった。そんな態度は今まで見せられたこともなかったし、言われたこともなかった。
そして自分の中に、必死に押さえ込んでいる気持ちがあることに気付く。誰にも見せないように、気付かれないように、月森にさえ伝わらないように深く押さえ込んだ気持ちが…。
「俺も…」
触れたかった。触れて欲しかった。
言いながらそっと手を伸ばし月森の指に自分の指を軽く絡めると、絡めたはずの指が逆に絡め取られてしまう。
触れた指先は冷たいのに、伝わる体温はとても熱かった。
扉を閉めると同時に、唇が降りてきた。
ドアノブに手が残されたままの不安定な状態で片手だけを月森へと伸ばすと、その手は扉へと縫いとめられてしまう。
月森と扉に挟まれた状態で更に深くなる口付けが、俺の理性も自由も奪っていく。
「ん…」
角度を変える度に漏れる自分の声にすら煽られ、支えることが出来なくなった膝の力が抜けて扉伝いに身体が落ちていく。
「は、ぁ…」
離れた唇から息を吸いたいのに、呼吸が乱れてうまく吸えない。
「梁太郎…」
呼ばれたその声になんとか顔を上げるが、視線が定まらなくて月森の顔に焦点が合わない。
キスだけで、こんな風になってしまうのは初めてで少し怖い。こんなにも月森を欲している自分の、気持ちが止められなくて少し怖い。
「れん…」
しゃがみこんでしまった俺を追ってくる月森に手を伸ばすとその手を握られ、そしてそっと甲に唇が触れる。
「っ、あ…」
たったそれだけなのに、また呼吸が乱れる。まるで息の吸い方を忘れてしまったかのように、空気が喉で詰まる。
「立てるか?」
まるで抱き上げるかのようにそっと抱き締められ、俺はそんな月森に身体を預けながらゆっくり立ち上がった。
「ベッドに行こう」
耳元でささやかれた声に、俺はぎゅっと抱き締め、うなずくことで答えた。
2009.1.19up