『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲17
それからしばらくは、忙しい日々が続いた。普段の仕事に加え月森とのリサイタルの打合せなど、やらなければいけないことはたくさんあった。演奏する曲もほぼ決まり、仕事でもプライベートでも、ピアノと向き合っている時間が長くなったような気がする。
けれどそんな日々が、俺は楽しくて仕方なかった。毎日がとても充実している。
ピアノを弾くことが楽しい。ピアノを弾けることが嬉しい。俺はピアノが、音楽がやっぱり好きなんだと心からそう思った。
そして、細かいことで悩んでいた自分が可笑しく思えてきた。
俺は何をそんなに悩んでいたのだろうか。何をそんなに気にしていたのだろうか。そんなこと、音楽を好きだというこの気持ちに比べたら、全然たいしたことではなかったのに。
元々、音楽に関しての意見が食い違うことの多い月森と、仕事として関わることもいい刺激になった。今まで以上に、色々な面から物事を捉えられるようになった。
その影響もあるのか、自分の奏でる音色が少しずつ変わってきているような気もする。
苦手だと思っていた曲の好きな面が見えてきたり、いつもとは違う解釈での演奏が思った以上に好評だったりと、それはとてもいい変化だ。
正反対の意見を聞くということは、偏りがちだった俺の演奏を、いい方向へと導いてくれる。そして同じように月森の演奏もまた、更に魅了する音色へと変わっていた。
そうやってお互いを高め合えることは、俺たちにとって何よりも幸せなことだ。
打ち合せなどで月森と顔を会わせることは多かったが、曲の練習はそれぞれ別々に行っていた。お互い、それ以外の仕事もこなしているのだから仕方ない。
一人で弾いていても頭の中には月森のヴァイオリンがいつでも流れていた。思い出すその音色に、俺のピアノを重ねていく。そして二人で合わせたときに細かいところを調整し、完成させていく。
楽譜には書き込みが増えていき、そのひとつひとつが二人で作り出す音色へと変わっていった。
そして限られた時間の中で合わせる二人の音色は、合わせる度によくなっていた。
本番まではまだまだ時間もあり、この調子でいけばいい演奏になるだろうと思いながら、けれどまだ何か足りないような気もする。
足りないというのか、違うというのか。うまく表現できないが、このままでは納得が出来ない。
それを月森に伝えると同じように思っていたらしいが、その何かはやっぱりわからないようだった。
誰かに聴いてもらえばわかるかもしれないとも思ったが、俺たちが感じる何かは聴く側には感じないらしく、それは演奏する俺たちの心の問題なのかもしれなかった。
聴く側に伝わらないのならばこのままでもたぶん支障はないが、演奏に妥協はしたくない。納得の出来ない音で舞台には立ちたくない。
二人の音色が完成に近付けば近付くほど、その何かがみつからなくて納得できない思いだけが取り残されていく。