『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲14
そのまま続いていた会話がなんとなく途切れたとき、俺は練習部屋から出てきた理由を思い出した。どうも昨日から、本題が電話に邪魔されているような気がする。
どんな風に切り出そうか言葉を選んでいると、月森のヴァイオリンケースが目に留まった。月森が帰ってきてから、まだ一度もヴァイオリンの音色を聴いていない。
「せっかくだから、何か合わせないか」
俺はそのケースを指差しながらそう言うと、月森はそうだな、と小さく微笑んだ。
「曲は何がいいだろうか」
ヴァイオリンの準備をしながらも、月森の目は楽譜が並んだ棚へと向かっている。
仕事としてピアノを弾くようになって楽譜の数も増えた。前はピアノ曲ばかりだったが、今は色々な種類の楽譜が入っている。
「そうだな…。今から練習しておくのもいいかもな…」
棚からヴァイオリン用の楽譜を取り出して月森のところへ持って行く。
「何をだ?」
準備の整ったヴァイオリンの音を確認するように一度弾いて、それがどうやらいい音だったらしく納得したようにヴァイオリンを見つめていた顔は、俺の言葉で疑問の表情に変わった。
「何って、月森のリサイタルでの曲に決まっているだろ」
そして更に驚きの表情に変わる。
「昨日の話、受けるぜ。よろしくな」
悩んでいるのは俺らしくない。今を逃したら絶対に後悔する。
何よりも、月森の目指すところを、俺も一緒に目指してみたい。
「土浦…ありがとう」
本当に嬉しそうに、そして幸せそうに微笑まれて何だか恥ずかしくなる。
月森の笑顔なんて、見慣れたと思っていたのにな…。
「お礼を言いたいのは俺の方だ。俺を、俺のピアノを選んでくれて、ありがとう」
改めて口に出すとやっぱり照れ臭いが、これだけはどうしても言っておきたかった。
そしてそれを言葉にすると、本当に幸せなことなのだと実感する。
曲を選ぶという作業はそれなりに神経を使うが結構楽しい。けれど月森と二人で選んでいるとどうしても意見が合わない。あまりにも合わなさ過ぎて笑ってしまうくらいだ。
それは今に始まったことではないが、恋人同士になった今でも相変わらずなところは成長していないんじゃないかと思ってしまう。けれど、それが月森と俺らしくていいような気もする。
高校生のときのように何が何でも認めない訳でもないし、お互い妥協もする。譲れないと我を通すことが得策ではないと今はちゃんと気付いている。
音楽を仕事にしているからは自分が好きな曲ばかりを弾ける訳でもないし、いつも同じ曲を弾いていればいい訳でもない。嫌いな曲や苦手な曲を弾かなければいけないときだってある。誰かの伴奏をするときは相手に合わせることも必要だ。
ただ、相手が月森だと思うから、ついつい俺もあれこれと言ってしまう。実際にリサイタルの曲として選んでいる訳ではないにしても、よりよいものをと思うから尚更だ。
「片っ端から弾いていくのも面白いかもな。思いがけないものが見つかるかもしれない」
数え切れないほどの曲を弾いてきたが、だからといって全ての曲を弾いたことがある訳ではない。
「それもいいかもしれないな」
広げられたいくつもの楽譜から、二人が気に入る曲が見つかればいい。例えまた、弾き方だの解釈だので言い合うのだとしても、それはそれでまたきっと楽しい。
そうやって二人の音楽が出来上がればいいと、俺は思う。
2009.1.9up