『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲13
部屋を出ると月森は電話中だった。一瞬、例の電話かと思ったが、その表情はやわらかかったからそうではないらしい。
「土浦」
何か飲み物でも、と思いキッチンへと方向を変えると、俺が部屋から出たことを気付いたらしい月森に呼ばれた。
通話口を押さえている状態からして、まだ話中らしい。
「日野からだが、来月の予定はもう決まっているだろうか」
そう言われて、そういえば昨日の別れ間際にコンサートがあると言っていたと思い出し、俺はスケジュール帳に手を伸ばした。日にちを確認すると時間的に都合が付きそうだったのでOKの返事をし、予定を入れないようにと書き込んでおいた。
ついでにこの先の予定を軽く確認していると、通話を終えた月森が少し複雑そうな顔でこちらを見ていることに気付く。
スケジュール帳を閉じて月森の傍へと行くと、わからない、と小さな声でつぶやくのが聞こえた。
「俺が鈍いだけだろうか…」
言いながら軽く腕を引っ張ってくるから、俺は月森の隣に座った。
「日野に何か言われたのか?」
月森がつぶやいたその言葉の意味がわからなくて、俺はそんな風に聞いてみた。
「いや…。例の電話のことなのだが…日野にも俺のことをあれこれ聞いていたらしい。なぜと聞いたら鈍過ぎだと言われた」
月森は不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。
「君にもわかるのか?」
俺はなんとなく、日野との会話の内容を察した。
本当に気付いてないのだという、その月森らしさと、月森と日野の会話が目に浮かぶようで俺は思わず笑ってしまった。
「そりゃ、俺に別れろって言ってくるくらいだからな。月森とは話がしたいんだろうし、どんなことでも知りたいんじゃないか」
遠回しにそう言うと、表情は変えずに何かを考えているようだった。
「ま、やり方はだいぶ間違っていると思うけどな」
月森には、影でコソコソしていても全く伝わらないし、だからといって正面切ってぶつかっていけば断られるのが目に見えている。
月森の中に何かしらの存在意義がない限り、それがどんな意味であれ、不用意に近寄ってくる人間は月森にとってはその他大勢でしかない。
そして月森は、自分に向けられる好意に対しとても厳しい。迷惑だと切って捨てる。自分にも厳しいが、他人にはもっと厳しいのが月森のやり方だ。
もしも月森の中に印象を残したいがためにこの方法を取ったのだとしたら、それはそれでやっぱりこのやり方は間違っているし、本心が伝わる確立はものすごく低い。
そう考えると、最初はだいぶ嫌われていた俺が月森の恋人であるという事実は少し不思議な気もするが、意味もなく気に入らないというその第一印象が月森に俺という存在を印象付けていたのかもしれない。だから文句を言い合って、反発し合って、お互い嫌いだと思っていた気持ちが、実はまるっきり逆だと気付くまでだいぶ時間が掛かってしまったが、気付いた後の月森の行動は予想以上に早かった。
結局、その他大勢の存在から抜けられるかどうかは、月森次第なのかもしれない。
「………」
何か気付いたらしい月森は更に眉間の皺を増やした。
「君にも日野にも、迷惑を掛けているだけだ」
人に頼まれたら断れないところのある日野は、一体、何を聞かれてどう答えたのだろうかと、少し気の毒に思う。
「そういえば、日野に気を付けてと言われたから何をと聞いたら、色々、と言われた。日野は…俺たちのことを気付いているのだろうか」
そこは俺にもいまいちよくわからない。けれど、月森がよく俺の家に来ていることも、俺が留学中の月森と連絡を取り合っていたことも日野は知っている。
直接、聞かれたことはないし、それっぽいことを言われたこともないが、気付かれていてもおかしくない。
「どうなんだろうな…。でもまぁ、日野には気付かれているのかもな…」
それでも日野の態度は高校生の頃から全く変わっていない。俺にも月森にも変わりなく接している。
気付いていて気付かないふりをしていてくれているのだとすれば、ありがたいのだと思う。
「こうやって電話をしてきてくれたことを考えると、日野の勘には感謝しないといけないということだろうか」
コンサートという他の理由があったにせよ、日野なりに気を遣ってくれたのかもしれない。
「でも日野以外にも気付かれている可能性がある、っていうよりすでに気付いているヤツもいるのか。とにかく気を付けないといけないってことだよな…」
そう考えると、さっきしたはずの決心が思わずほんの少し鈍る。
でも俺は一人の演奏家として、やっぱり月森と同じ舞台に立ちたいと思う。