『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲10
「そういえば、話があるって言っていたよな…」やっと声が普通に出るようになって来た頃、ふと、今日、月森がここに来た理由を思い出した。俺が帰って早々あの電話だったから、最初の目的を忘れていた。
「あぁ…」
月森は短い返事だけで、少し考えるように言葉を切った。
その表情の理由がわからなくて、俺は首を傾げようとしたが寝ている体勢では叶わず、そのまま見つめることで疑問の意を伝えてみた。
「少し悩んでいることがあるんだ」
その意は伝わったらしく、月森はそう答えた。
「悩んでいるというか、出来れば君に頼みたいと思っているんだが…」
月森にしてはなんだか歯切れの悪い言い方だ。
その悩みの原因にどうやら俺が係わっているらしいが、一体俺に何を頼むつもりでいるのだろうか。
「何を?」
そう聞くと、月森は真っ直ぐに真剣な瞳を俺に向けてきた。
月森には自分の思ったことを信念を曲げずに貫き通すところがあり、人に意見を聞くことがあまりない。
実際、人に何かの助言を求めるときというのは何かを決めて欲しい訳ではなく、自分の意見を後押ししてもらって安心したいだけだったりする。だから最初から誰の意見も聞かない月森のやり方というのは、自分の意見に正直なだけでなく、自分の意見に対してそれだけ責任を持っているということなのかもしれない。
そんな月森が悩みを持ちかけてくるのだから相当なことなのだろうかと少し身構えてしまう。
「まだ本決定ではないんだが、リサイタルの話が出ているんだ」
月森の音楽活動はオーケストラとの共演で行うコンサートや何人かで組んで行う演奏会などが多く、本当に単独となるリサイタルは開いたことがなかった。
月森くらいのソリストともなればそんな話は何度かあっただろうに、なぜか月森自身があまりやりたがらない様子だった。
「俺がリサイタルを開くときには君と…、土浦のピアノと一緒にやりたいと思っていたんだが…。引き受けてもらえるだろうか」
何か、すごいことを言われたような気がする。そう思って俺は月森の言葉の意味を、頭の中でゆっくりと考えた。
つまりそれは月森のリサイタルで、俺がピアノを弾くってことか?
「ちょっと待て、お前、何で俺なんだ。俺以上にもっと相応しい人がいるだろう?」
それこそ有名なピアニストとの共演を考えるのが普通なのではないかと思う。あるいは、今までの演奏会で月森の伴奏を務めた何人かの伴奏者たちと組むのが妥当なところだろう。そこになんで俺なのだと思ってしまう。
別に月森の伴奏をやることが嫌な訳じゃない。今まで月森の伴奏を務めてきた人たちに自分の演奏が劣ると思っている訳でもない。月森のリサイタルでピアノを弾けるのはむしろ嬉しいことなのだが、月森と俺の知名度では差があり過ぎる。
「俺にとっての大舞台だからこそ、土浦にピアノを弾いてもらいたいんだ。俺のヴァイオリンに一番合うピアノを奏でられるのは君しかいないんだ」
月森の真剣な、そして真摯な瞳が真っ直ぐに俺を見ている。
「今日、君の演奏を聴いて、とてもヴァイオリンを弾きたくなった。けれど家に帰ってから弾いたヴァイオリンは何か物足りなかった。どんなにいい演奏をしても、どんなにうまく弾けたと思っても、どれだけの賞賛と拍手をもらっても、いつも何か物足りない。俺のヴァイオリンに重なる、君のピアノの音色がそこにはないからだ。重なった音色を聴きたい。舞台で奏でたい」
俺だって、月森の演奏中にピアノを弾きたくなるときがある。月森のヴァイオリンを最大限に引き出すために俺ならこう弾くのにと、そんな風に思うことだってある。そして、俺のピアノに重なるお前のヴァイオリンを思い浮べてピアノを弾くことだってある。
でも、それとこれは違う気もする。
「返事は今すぐじゃなくてもいい。だから、一緒に演奏してもらえないだろうか」
それは俺に考える時間を与えてくれてはいるが、結局、イエス以外は聞きたくないと言っているようなものではないか。
「少し、考えさせてくれ…」
答えはたぶん決まっている。でも俺はまだその選択に自信を持って返事をすることが出来なかった。
2008.12.29up