『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲9 *
「もうよそうぜ、この話は」そう言って抱き締めたままの身体を更に引き寄せる。思えば押し倒された体勢のままだったのだ。
せっかく二人で居られるのだから、その時間は無駄にしたくない。
「そうだな…」
月森は一瞬、考えるそぶりを見せたが、ゆっくりと俺に触れてきた。
頭のてっぺんから足の先まで、全てで月森を感じ、全てが月森を欲している。
昨日のような激しさとは逆で、ひとつひとつ確かめるように触れてくる手も唇もなんだかもどかしい。
「はぁ…ん…」
漏れる吐息はまるでねだるように甘い。それが自分のものとは思えないほど甘くて思わず口を押さえてしまう。
「どうした?」
わかっているくせに聞いてくるのが悔しくて、握り締めた月森の右手を口元に引き寄せた。
自分の声を抑えるために、そう思わせながら手首の内側へと唇を這わせ、きつく吸った。
「っ…」
息を詰めたような月森の声が聞こえ、そっと唇を離すとそこに赤い跡が付いた。
普段、跡を残すようなことはしない。けれどどうしても、それが例え少しの間でも、月森の目の付くところに自分の存在を刻み付けておきたかった。
「じらすなよ…」
手首から指までを舐め上げ、そのまま指を口腔内へと誘う。それが何を意味するか、きっと伝わるはずだ。
「じらすのも、悪くないな…」
耳元でささやかれ、その唇は耳たぶから首筋を通り、胸元へと落ちて俺にも跡を残す。瞬間、身体中に快感が駆け巡った。
「っ、っん」
思わず閉じかけた歯が指に当たりそうになる。
ゆっくりと指が出て行くと、今度は舌が入り込んできた。
息をすることも出来なくなりそうなキス、溶けてしまいそうな程に熱い身体…。
誰も入る隙間が出来ないようにピタリと肌を寄せ合って、更に引き寄せたくて抱き締める。
月森で全てが満たされる。月森のことしか、考えられなくなる…。
けだるい余韻に浸りながら夢現を彷徨っている俺の髪を、月森の指が優しく梳いていく。肌に触れるか触れないかのその気配が、更に心地よくて夢の中へと誘われる。
「れ、ん…」
無意識につぶやいた名前に、髪を梳いていた手が止まった。
「起こしてしまったか?」
俺が寝ていたと思っていたらしい月森の、少し遠慮がちな申し訳なさそうな声がまた心地いい。
「…ね、な…、ぜ…」
寝てないと、そう言いたかった言葉は、けれどきちんとした声にならない。目蓋も重たくてなかなか上がらない。
「明日も仕事なのだろう。無理せず寝たほうがいい」
そう言ってまた、俺の髪を梳いていく月森の手は本当に優しい。
この手がヴァイオリンを奏で、その音色が世界中の人々を魅了しているのだと思うと、ほんの少しだけ悔しく思ってしまうのは月森には内緒だ。
だから今、その手が俺に触れていると思うだけで嬉しいと思う。そして、こうやって触れるのは俺だけにして欲しいなどと思ってしまうことも内緒だ。
「ぁ…たは、ゃす……」
思考は段々と浮上してくるのに、やっぱり声がうまく出ない。
明日は特に仕事らしい仕事は入っていないから、ピアノの練習日に充てていた。いつだって上を目指している月森を見ていると、俺だって負けていられない。
例え立つ舞台が違っても、観客の数が違っても、いつだって月森に負けない演奏をしていきたい。どんな場所でも、どんな曲でも、いつだってベストな状態でピアノを弾きたい。ベストな状態を聴いて欲しい。
「明日は休みなのか?」
月森はどうやら掠れた俺の声でも聞き取ってくれたらしい。
小さくうなずいて返事を返しながら重たい目蓋をなんとか持ち上げてその視界に月森を探すと、俺の髪を撫でる右手の向こうで、俺を見つめる月森の視線とぶつかった。
その視線も優しくて、こうやって見つめるのも俺だけにして欲しいと、尽きることのない想いを胸の中でそっとつぶやいた。