『音色のお茶会』
海に浮かぶ雲1
『月森さんと別れて…!』その声は、返事をする間も与えられないまま無機質な機械音に変わった。
電話越しに聞いたその声には聞き覚えがあった。名前は聞かなかったが、一度だけ月森の演奏会で挨拶程度の会話を交わしたことがある。
俺は自分の耳と記憶力の良さに思わず苦笑いが漏れた。
誰だかわからないのも気になるが、わかってしまうのも気分が悪い。
そういえばあのときも、何かと月森に話し掛けていたという印象が残っている。
それにしても男の俺にそう言ってくるとは女の勘は怖い。
さすがに自分の立場を考えるだろうから、月森が打ち明けたとも考えにくいし、だからといってなんの確信もなくこんな行動には出ないだろう。
公衆電話から掛けてくるのも姑息だ。知らない番号なら出ない可能性もあるし、非通知は論外だ。
気付かれないと思っていたのか、気付かれることを承知で掛けてきたのか。
自分勝手にその言葉だけを俺に浴びせ、あわよくばその言葉通りになってくれたらと思っていたんだろうが、残念だが俺はそんな言葉で引き下がるつもりは毛頭ない。
それくらいの覚悟なしに月森の傍に居ることなんて出来ない。
月森は留学中から世間の注目を浴び、日本に帰ってきた今はソリストとして活躍している。
その活動範囲は日本に留まらず、長期で海外へ行くこともめずらしくない。例え日本の公演でも全国津々浦々を飛び回っている月森は基本的に実家かホテル暮しだ。
そして何かがあると、大学を卒業してから一人暮らしを始めた俺のところに泊りにくる。
それは防音室があって気兼ねなくヴァイオリンが弾けることと、俺が月森の恋人だからだ。
高校の同級生、それも同じコンクールで競い合った仲、そして二人とも音楽を生業としているのだから、世間的に俺たちの関係はばれていない。
月森が俺の家に入り浸っている訳でもなく、外に出ればお互い取るべき距離はちゃんと保ってきた。
それなのに…。
ついさっき掛かってきた電話を思い出し、なんとも表現しがたい気分になった。
携帯電話に掛かってきたというのも何か引っ掛かるものがある。この携帯がまったくのプライベート用ではないにしても、仕事でも使っている自宅の電話番号のほうが比較的入手しやすいはずだ。
どこで手に入れたのだろうか。
そもそも、俺たちの関係をいつどこで知ったのだろうか。
誰にもばれるはずがないとは思っていなかったが、そうなったときのことは考えていなかった。
こんなことは初めてでどう対処したらいいのか少し悩む。とりあえずは相手の出方を待つしかない。
それにしても、厄介なヤツに目を付けられたのかもしれない。
それから電話は何回か掛かってきた。
毎日とか何時間置きという嫌がらせではないが、忘れた頃に掛かってくるから質が悪い。
台詞は馬鹿の一つ覚えみたいにいつも同じ。
その声もその台詞も聞きたくないが、俺にはなぜかアナログな友人が多く、たまに必要な連絡が公衆電話から掛かってくるから着信拒否も出来ない。
とりあえず留守電に繋ぐ設定に変えた。さすがに声を残すようなことはしないだろうという考えは正解だった。
何度言われても、誰に言われても、その言葉を聞く気はない。それが常識から外れた関係だとしても、間違っていると言われても、俺にとって月森はどうしても手放せない存在だ。
もしもそれが月森からの言葉ならば考えなくてはいけないことなのかもしれないが、赤の他人に言われても心は揺るがない。
だから電話のことは月森には話さなかった。長期で海外へ行っているという所為もあったが、事を荒げたい訳でもないし、こっちが何かアクションを起こすのは相手の思う壺のようにも思えた。
向こうだって、それをしたらそれこそ月森の立場を悪くしかねないと気付かないほど馬鹿ではないだろう。
その前にそんなことしていると知られたら立場が悪くなるのはそいつのほうか。でも何の証拠もないのだから、シラを切り通されたらそれまでかもしれない。
そう考えると立場は俺のほうが不利かもしれないが、俺には揺るぎない自信と確信がある。
そしてそれは、裏切られることはない。