TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

『parallel mind』 variation ~変奏曲~ 4

押し寄せる波に逆らうべきか、流されるべきか



 夜、宿泊先のホテルで今日は別行動をしていた友人たちの話を聞いていたとき、不意に電話の音が鳴り響いた。
 海外旅行ということもあり、緊急の連絡用にとそれぞれが携帯電話を持ってきていたが鳴ったのは初めてだった。
 着信音からして俺のだと思い、鞄の中に入れっぱなしだった携帯を取り出してディスプレイを見るが、番号が表示されているだけで誰から掛かってきたのかがわからない。それも見慣れた市外局番のようではなかったので不審にも思ったが、何か緊急の事態でも起こったのだろうかと電話に出てみた。
「もしもし…」
 そんな俺の態度を察したらしく、会話が止んでその視線がみな、俺へと向けられた。
『もしもし。…土浦、か?』
 変な緊張の中、電話越しに聞こえたその声に俺は別の意味で驚いた。聞き覚えのある声だったけれど、まさか今ここでまた聞くことになるなんて思ってもいなかった。
 聞こえたその声に、呼ばれたその名前に、心臓が耳元で鳴っているかのように煩い音を立てている。
 そして、昼間聞いたたった一言の言葉が頭の中によみがえる。
 俺は向けられている視線になんでもないと告げながら、その場から少し離れた。今、自分がどんな表情をしているのか考えると、みんなが見ているあの場所でそのまま話をすることは出来なかった。
「あぁ…。月森…だよな」
 確かめるようにその名をつぶやくと、懐かしさに胸が震えた。
 どれだけ長い間、その名を口にしていなかったのだろうと思う。それなのに口に出してしまえば、誰の名前よりもしっくりとくる響きを持っている。
『よかった。この電話に掛けて繋がるか、不安だったんだ。…今、話をしても大丈夫だろうか?』
 あとで、と、そう言った言葉通りに月森は俺に連絡を取ってくれたのだと思うと、信じられないような気もする。けれど月森からの電話だというのは事実で、そして俺と話をしようとしているのだと気付くとどうしていいのかわからなくなる。
 嬉しいと思ってしまう。期待してしまう。望んでしまう。縋ってしまいたくなる。
 そんな気持ちを隠した言葉が、あの頃のようにすぐに出てこない。返すべき台詞が、みつからない。
「別に、大丈夫だけど…」
 それでもそんな気持ちが見透かされないように、そしてすぐに切られてしまうことを避けるように、俺は短い返事を返した。

 久し振りに聞いた土浦の声は、憶えているそれよりも少し落ち着いたような感じを受けた。それは5年という年月のせいだろうか。
 ヴァイオリンのレッスンを終えて家に戻ってすぐ、しまってあったアドレス帳に土浦の携帯番号を探した。
 旅行中と考えられる土浦が携帯電話を持ってきているという保証はない。それ以前に、今も同じ番号を使っているかどうかもわからなかったが、考えられる連絡手段はこの番号以外に思い付かなかった。
 祈るような思いで掛けた電話は、その祈りが通じたのか土浦へと繋がった。
 覚悟をしていたような反応が返されることはなく、久し振りに土浦と話す時間を作ることができた。
 話をしたかった。声を聞きたかった。このまま会えなくなってしまうのは耐えられなかった。
「昼間、君を見かけて驚いた。旅行中か?」
 衝動的に掛けてしまったが、何を話していいのかとっさに思い付かず、それでも何かを話さなければと、たわいない言葉を口に出した。
『あぁ、卒業旅行ってやつだ』
 誰と…。でもそんなことは聞けなくて心でつぶやく。返ってくる答えが怖い。聞きたくない名前が返ってきたら、俺はうまく対応できる自信がない。
『俺も驚いた。まさかバッタリ出くわすとはな。それに…』
 少し皮肉めいたその物言いが土浦らしいといえばらしいのだが、電話越しであるが故にどんな感情で言っているのか読み取れない。
「それに?」
 だから余計に、言いよどむように切られた言葉の続きが気になって、思わず聞き返してしまう。
『いや、まさか電話が掛かってくるとは思ってなかったからさ…。そっちにも驚いた』
 返ってきた言葉はやはり皮肉めいていたが、その声は今までに聞いたことのないものだった。
 その表情が見えないからはっきりとはわからないが、少なくとも俺が電話を掛けたことを迷惑と思っている感じではなく、むしろ歓迎されているようにさえ感じてしまう。
 そんな声を聞いたら、誤解してしまう。言わなくていいことを、言ってしまいそうになる。
「君に…」
 逢いたくて。触れたくて…。
 けれど続く言葉は声にならない。伝えることが出来ない。
 そうやってこの先も、本心を隠して過ごしていくのだろうか。また同じことを、繰り返すのだろうか。

 言いかけた月森の言葉の響きがどこか切なくて、俺の心臓は更に大きな音を立てて鳴り始めた。
 緊張感にも似たその早鐘のような鼓動は、電話を持つ指先に痛みをもたらす。
『ウィーンにはいつまでいる予定だ?』
 けれど続いた言葉は、聞き覚えのある感情を全く表さない声で発せられた。
 わかっているくせに、俺はまたしなくてもいい期待と錯覚に振り回される。月森の声を聞いているだけで、冷静な判断が出来なくなりかけている。
「あ、えっと、明後日の便で帰る予定だ」
 そんな動揺を隠そうとした返事は、思い切り失敗して焦ったものになってしまった。
 そして、明後日には日本に帰るのだと思い出し、気持ちが沈んでいく。
 せっかく逢えたのに、せっかく話をすることが出来たのに、このまま日本に帰ったら、きっと今までと何も変わらない。
『そうか…』
 聞こえた月森の声からは、何の感情も読み取れない。
 何で月森は電話を掛けてきたのだろうか。声を聞かなければ、話をしなければ、一瞬の再会なんて夢だと思えたはずだ。今までと同じように、見なくてもいい錯覚を見たのだと、そう思えたはずなのに…。
『帰る前にもう一度…会えるだろうか』
 諦めにも似た考えに心が冷えていくのを感じていた俺の耳に、信じられない言葉が聞こえてきた。
「え?」
 聞き間違えではないのかと、また俺が都合のいい錯覚をしているのではないのかと、そう思ってその言葉を聞き返す。
『君に、もう一度逢えるだろうか』
 同じ言葉を聞いて、それが錯覚ではないのだと確信する。
 なぜ月森がそんなことを言ってくるのかはわからない。けれど、俺にはそれを断る理由なんてない。
「明日の夕方なら時間、作れると思うけど…」
 ただ、留学中の月森にだって予定はあるだろうし、俺だって独りで行動しているわけではないのだから時間的な制約があるのも事実だ。
『そうしたら明日の夕方に。…ありがとう、土浦』
 聞こえた月森の声に、微笑んだ月森の顔が見えたような気がした。