『音色のお茶会』
『parallel mind』 tear ~ワカレ~ R
何かが始まっていたのだろうか。何も始まっていなかったのだろうか。
最上級生へと上がる4月。
そこに月森の姿はなかった。
それまでの時間を、俺はただいつもどおり過ごしていた。
その短い月日が、どれだけ大切なものかなんて気付きもしないで。
「春になったらウィーンに行く」
月森の口からそんな言葉が出たのは雪の降る寒い日だった。
その言葉に一瞬、頭の中が真っ白になった気がした。
「へぇ…」
なんとか口をついて出た言葉はたったそれだけで、その先に続く言葉が出てこない。
いつか留学するという話は前々から聞いていたからさほど驚きはなかった。
だからそれが現実になったという事実があるだけで、そのときはまだ実感がわかなかった。
ただ、何かを目の前に突きつけられたような気がして、思考がついていかない。
そのまま会話が途切れ、春休みになるまでその話がふたりの間で交わされることはなかった。
ただ、いろいろな噂だけがあっちこっちで飛び交っていて、嫌でも俺の耳に入る。
それでもまだ、月森の留学が俺にとっての何なのか、わかっていなかった。
月森は留学が決まってから忙しいのか、しばらく会わない日も続いた。
同じ学校に通っていたって、学科が違えば会わない日のほうが多い。
それに、俺たちはそんな仲じゃない。ずるずると続いている関係だけが、俺たちを繋いでいる。
何を求めるわけでもなく、何を交わすわけでもなく、それでも手離せない関係。
それは変わりないのに、月森の態度が少し違うようで気になった。
久し振りに会うと、必ずと言っていいほど身体を重ねた。
それは嬉しくも悲しくもあり、虚しさを感じながらも俺の心を満たす。
思えばその頃から、月森は何かを求めるようにどこか遠くを見ていることが多くなった。
手に入れられない想いを抱えたまま、ただただ月日だけが流れた。
「淋しくなっちゃうね…」
空港で見送る日野の言葉に、月森は少し困ったような視線を向けていた。
まるで月森と入れ替わるように、日野は4月から音楽科へ転科する。
俺にも転科を勧める話がきたが、その道は選択しなかった。
同じ学科で月森と日野を見ることは耐えられそうにないと思ったのも、ひとつの理由だった。
ウィーンに行く月森、音楽科に行く日野、そして何も変わらない俺。
結局はバラバラの道を進むことになって杞憂に終わったが、それでも転科する気にはなれなかった。
「じゃあ…」
搭乗時間が近付き、短い言葉で見送る。
「またいつか、みんなで会おうね」
手を振る日野の言葉に、俺は一瞬、ドキリとした。
これから先、月森と会うことなんてあるのだろうか。
すぐに会える距離じゃない、連絡を取り合うような仲でもない。
会わなくなったら、俺たちの関係なんてなかったことになる。忘れられてしまう。
いつだって、約束なんて交わしたことのない俺たちが、また会うことなんてあり得ない。
そしてそのとき、俺はやっと気付いた。
何もかも、終わってしまったんだと。
学校にも街にも自宅にも、月森との思い出がある。
どこにいても月森を思い出してしまう。
居ないとわかっていても、その姿を探している自分がいる。
月森を求めている自分に気付いて、本当に月森が居なくなってしまったのだと実感する。
いつになったら忘れられるんだろうか。
知ってしまったぬくもりを、忘れることなんかできるのだろうか。
それならばいっそ、知らなかったほうがましだ。
でも、何もないよりはいいんだろうか。
そこに心がなくても、よかったのだろうか。
よくないと思いながら、それでもいいとも思っていた。
いつかくるのであろう別れに、気付かない振りをしていた。
始まりがあれば、必ず終わりもある。
その終わりがきただけ。
「本当は何も、始まってすらいなかったのかもな…」
つぶやいた言葉は、誰に聞かれるでもなく春の風に吸い込まれていった。
『parallel mind』 tear ~ワカレ~