『音色のお茶会』
『parallel mind』 tear ~ワカレ~ L
何かが終わろうとしていた。まだ何も始まってもいないのに…。
桜が散る3月。
土浦から逃げるかのようにウィーンへと渡った。
それまでの時間を、なるべく考えないようにしていた。
その短い月日でさえ、俺は逃げて過ごしていたのかもしれない。
「ずいぶんと急がしそうだな」
久し振りに土浦から声を掛けてきたのは冬にしては暖かな日だった。
ウィーン行きを土浦に告げてから、忙しいことを理由にしてしばらく会っていなかった。
「色々とな…」
まるで嫌味のような物言いに、けれど短い返事だけを返した。
話をすればするほど辛い思いをしそうで、留学の話を土浦とするつもりはなかった。
コンクールなどの影響もあってか薦められた留学の話を、俺は複雑な気持ちで受けた。
高校を卒業してからと思っていた留学を一年早めたのは、ただの逃げだったのかもしれない。
ウィーンに行けば音楽に集中できる。それ以外を考えなくてすむ。
土浦と日野を見て、心が痛くなることもない。二人のこの先に、俺がかかわることもなくなる。
土浦に会うことも、声を聞くことも、触れることも、何もない…。
わざと距離を置いて会わない日々を続けているのに、なぜか土浦から俺に声を掛けてくる日が多くなった。
会ってしまえば、どちらともなく誘い、誘われて身体を重ねた。
思えば誘われて断ったことはなかったが、逆に誘って断られたこともなかった。
そこに何の感情がないと分かっていても、今の俺には唯一の繋がりだった。
その姿をこの目に焼き付け、その熱をこの身に刻み付ければ付けるほど、手放せなくなる。
思い出だけを抱えて、記憶だけに縋って、そんな日々がこの先どれだけ続くのだろうか。
でもそれは、今でも大して変わらないのだと思うと、可笑しくもないのに笑いが込み上げてくる。
ずるずると続いたこの関係はいつだって想いが一方通行で、俺は思い出と記憶しか手にしていない。
考えないようにしていたその終わりが、留学という言い訳で目の前に迫ってきていた。
「みんなそれぞれの道に進むんだね」
空港まで見送りに来てくれた日野は、少し淋しそうな顔で俺と土浦を見ていた。
日野は4月から音楽科に転科するらしく、転科をしなかった土浦を俺も日野も不思議に思っていた。
そんな日野に土浦は少し困った顔をしていた。
二人のやり取りを見ていると胸が痛いが、俺はこんな風に同級生として話すことすらなくなるのだろう。
ウィーンに行ったらしばらく帰るつもりはないし、それまでにそれぞれ別々の道に進んでいるはずだ。
少なくともあと一年あった同級生の関係から、やはりどんな理由であれ俺は逃げたのだろうか。
「淋しくなっちゃうね…」
そんな日野の言葉に、土浦はどう思っているのだろうかと、考えても仕方ないことを思った。
「じゃあ…」
短い言葉で別れを告げる。
今までも次の約束があった訳ではないけれど、本当に次はないように思えて胸が重く、痛くなった。
その痛みは刻々と迫っていたその時が、今、目の前で過ぎてしまったのだと気付かせる。
いつかこんな日がくることは分かっていたけれど、実際にくると辛い思いばかりが溢れてくる。
自分で選んでおきながら、何もかもに後悔をしている。
地上を離れた飛行機の浮遊感が、俺に現実を突きつける。
もう、戻ることはできないのだと。
真新しい生活のどこにも、土浦はいない。
誰のピアノの音色を聞いても、土浦と比べている自分がいる。
ヴァイオリンの音色に重なる君の音色を、聞こえるわけがないのに探してしまう。
土浦を求めている自分に気付いて、本当に土浦から離れてしまったのだと実感する。
こんな思いをずっと抱えていくのだろうか。
いっそ忘れてしまえばと思いながら、忘れることはできそうにない。
ほんの少しの間でも、それが幸せではなくとも、触れたぬくもりを忘れたくない。
そこに心がなかったことを悔やみながら、それでもいいと思っていたのも事実だ。
いつも、いつかくるのであろう終わりばかりを考えていた。
それが今現実になって、浅はかな行為だったと後悔する。
後悔という痛みに苛まれながら、この痛みだけが唯一の繋がりにも思えてくる。
終わったと思うのは、何かが始まっていたから。
一体いつ、始まっていたというのだろうか。
「始まる前に、終わることもあるのだろうか…」
つぶやいた言葉は誰に聞かれるでもなく、ヴァイオリンの音色にかき消された。
『parallel mind』 tear ~ワカレ~