『音色のお茶会』
オトメゴコロコイゴコロ8
『ブラボーなのだ!!』弾き終わった余韻に浸る間もなく、いつからそこにいたのか、はしゃいで飛び回るリリの声が俺を現実に引き戻した。
『我輩、すごく感激したのだ!』
そしてちょうど俺の頭上辺りへと移動したらしいリリの姿が見えなくなった途端、憶えのある不可思議な音と眩し過ぎる光に包まれた。
「まっ」
あまりの眩しさに声は途切れ、けれどそれは本当にほんの一瞬でまた元の明るさへと戻った。
『文化祭でも、素晴らしい演奏を聴かせてくれることを楽しみにしているのだ!』
リリは楽しそうに俺たちの周りを飛び回ると、言いたいことだけを言って、また光を振り撒きながらその姿を消してしまった。
「相変わらず人騒がせな…」
消えたその辺りを見上げながらつぶやいて、俺は自分の声に違和感がなくなっていることに気付いた。慌てて足元を確認すれば、ついさっきまで履いていたスカートがズボンへと戻っていた。
「土浦?」
呼ばれた名前に振り返れば驚き顔の月森がそこにいて、服は戻ってもそれ以外が戻っていないのだろうかと思わずピアノに自分の顔を映してみた。
「よかった、戻ってる…」
そこに映るのは見慣れた自分の顔で、ほっとしたと同時にそういえば魔法にかけられた瞬間も理由も月森は知らなかったのだと思い出した。
そしてリリが魔法を解いていったということは、俺が乙女心を理解したと判断した、ということなのだろう。
自分では理解したかどうかはよくわからないが、少なくとも人を好きになる気持ちは理解できたと思う。
「よくわからないが、無事に魔法は解けたということか?」
月森はヴァイオリンをケースに戻し、俺へと一歩近付いてきた。
リリの登場で余韻は感じている暇がなかったが、ついさっきまで弾いていた自分の演奏を思い出せばなんだか恥ずかしくて月森の顔をまともに見ることが出来なかった。
だがそっと月森を盗み見ればその視線は俺には向けられておらず、そこにはもうさっきの驚き顔ではなく、これといって特に感情のなさそうな見慣れた月森の表情があるだけだった。
途端、俺は高みから突き落とされたような錯覚を覚えた。
月森は俺に好きだと言ったことを後悔しているのかもしれない。その表情はまるで、俺の姿の所為で勘違いをしていたと言っているような気がした。
そういえば、昨日の月森にも魔法の詳細は聞かれなかったのだと思い出し、月森にとっては俺が魔法にかけられたことなど興味の対象ではなかったのだろうと思った。
「みたいだな…」
そう答えながら、俺は月森との演奏で完全に自覚した自分の気持ちに胸が痛くなった。だがここは魔法が解けてよかったのだと、そんな表情をしなくてはと、無理やり笑顔を作って月森へと向けた。
だが、月森は相変わらずの表情のまま俺から目を逸らしていて、月森相手に作り笑いを見せても意味がなかったかもしれないと思い、鍵盤に向き直る振りをして俺も月森から視線を逸らした。
「さっきの演奏だが、あれは君の気持ちなのだと、そう受け取ってもいいのだろうか」
だが聞こえてきた月森の台詞の意味が分からなくてもう一度顔を上げれば、今度は真っ直ぐで真剣な表情が俺へと注がれていた。
「俺の気持ちって…」
言っている意味が本当にわからなくて聞き返せば、月森はまた俺からそっと視線を逸らした。
「俺を練習に誘って、俺にあんな演奏を聴かせて…。それとも、あの演奏は俺ではない誰かを想っているから諦めろという意思表示だったのか?」
続く言葉も理解出来なくて月森を見上げていれば、月森はもう一歩、俺へと近付いてくる。そして一歩だと思っていた月森の接近は、気付けば抱き締められているというまさしく目の前まで近付いていた。
「……………。…なっ」
昨日はすっぽりと納まっていたのに今日は余っている気がすると頭がその違いを分析しようとして、俺はやっと自分の置かれた状況を理解して声を上げた。
そして無意識に月森の身体を押し返せば、昨日とは違い簡単にその腕から抜け出せることが出来た。
「すまない、昨日みたいなことはしないと約束したのに、俺は…」
ハッとしたように一歩離れた月森を、今度は俺が腕を伸ばしてその制服を掴むことで引き止めた。だが俺自身もその行動は無意識で、その手をどうしたらいいのかわからなくなった。
結局、月森の制服は離せず、そしてちょうど一歩分の距離が開いた俺たちは、そのまま固まったように沈黙の時間を過ごすことになった。
「頼むから期待をさせるようなことはしないでくれ。俺のことが嫌いなら、諦めろというなら、そう、言ってくれないか」
沈黙は月森の言葉で破られたが二人の間に横たわる空気は重く、月森は何かを諦めたように俺のほうを見ようとはしていなかった。
「別に俺は…。お前こそ、俺のことなんて…」
好きでもなんでもないんだろうと、そう声にする代わりに掴んでいた制服を離す。中途半端な位置にあったお互いの腕が元に戻れば、月森との距離は一歩よりも更に離れているような気がして胸が痛かった。
「もう一度、一緒に弾かないか」
その距離を俺に見せ付けるかのように離れていく月森を見ていられなくて逸らすように目をつぶれば、思いがけない声が掛かる。少し長い瞬きの振りをしてそっと目を開ければ、ヴァイオリンケースの前に立つ月森が目に映った。
「君の音色ともう一度、合わせたい」
向けられる月森の視線は真っ直ぐで真剣で、だがどこか淋しそうにも見える。それはまるで何かを諦めようと必死に努力しているようにも感じられた。
「今だけは君の音色を――。いや…、君の音色を俺に聴かせてほしい」
たぶん何かを言い直したであろう月森の言葉が気になった。そして一体何を諦めようとしているのか気になってしかたなかった。
「いやだ…」
言葉は、頭で考えるよりも前に口から出ていた。
ここで今、一緒に演奏したらもう二度と月森と演奏する機会など訪れないような気がして、それで何もかもが終わってしまうような気がして怖かった。月森と話をすることすら、月森が俺に声を掛けてくれることすらなくなってしまうような気がして、そんなことは嫌だと思った。
「すまな…」
「違う、そうじゃない。一緒に弾きたくないわけじゃないし、俺の演奏を聴かせたくないわけでもないし、月森を嫌いなわけでもない」
すぐに謝ってこようとした月森の言葉を遮り、俺は叫ぶように言葉を続けていた。
「気のせいじゃないから、さっきの演奏は、俺の気持ちそのものだから。だから、俺は…」
さっきはわからないと思っていた月森からの言葉が、急に俺の中で実感を伴った答えになる。月森への想いで、心の中がいっぱいになる。
「俺を、諦めないでくれ…」
今度は俺が月森へと近付く。あと一歩のところで腕を伸ばせば、月森に触れる前に月森から引き寄せられてそのまま抱き締められていた。
「本当に…?」
ちょうど耳元でささやかれ、その声に鼓動が早くなっていく。月森の肩口に顔をうずめるように頷けば、抱き締める腕の力が強くなった。
やっぱり身体が余る腕の中、俺のほうこそ本当にいいのだろうかと心配になって顔を上げれば、それに気付いて顔の位置をずらした月森の視線とかち合った。
その視線は見たことがないほど甘く、鼓動が更に速度を上げる。
「俺で、いいのか?」
飛び出してしまいそうな心臓を何とか押さえつけて心情を吐露すれば、月森は一瞬、驚いた顔を見せてから、すぐに嬉しそうにやわらかな笑みを俺に向けてきた。
「土浦がいいんだ」
何の説明もないシンプルな答えが月森らしく、その一言が全身の熱を一気に上げた。
「そんなに可愛い顔を見せないでくれ…」
少し低めの声が耳元を掠め、何がと聞き返す前に首筋に吐息と柔らかな感触を感じて身体が小さくはねた。
「ずっと、君を独り占めにしたいと思っていた。それが無理なら君の音色だけでもいいから独り占めにしたかった。だが俺にはそんな資格などないのだと、そう思っていた」
ぎゅっと強い力で抱き締められ、月森の想いを聞かされ、心臓が痛いくらいの速さで鼓動を刻む。
「本当はずっと前から、君をこの腕に抱き締めたいと思っていた…」
月森の言葉にその顔を見ようと動かしてみたが、その力は思った以上に強くて顔を見ることは叶わなかった。
「ずっと前って…、お前、もしかして昨日よりも前から…?」
だから疑問を声に出せば、月森の腕から動揺が伝わってきた。
「言葉にするつもりも態度に出すつもりもなかったが、君に惹かれている自覚は以前からあった。昨日、君が弾いたピアノの音色を聴いて、いつもと違う君のどこか無防備な姿を見て、気持ちも衝動も抑えることが出来なくなった」
抱き締める腕が緩み、月森の手が俺の頬に触れる。
初めて聞かされる月森の本心が信じられなくて、でも嬉しくて、真っ直ぐに俺を見つめる視線と、触れる低めの体温に何故か胸が痛くなった。
俺が自分の気持ちをちゃんと認めたのはついさっきで、もしももっと前に月森から気持ちを伝えられていたら、俺はその気持ちを受け入れることが出来ただろうか。いや、恋する気持ちさえわからなかった俺にはきっと無理だっただろう。
そしてさっき月森のことを引き止めなかったら、月森の想いはずっと月森の中にだけあり続けたのだろうと気付いて、本当に胸が痛くて痛くてたまらなくなった。
「月森…」
それをどう言葉にしていいのかわからなくて名前を呼べば、まるでそれを待っていたかのように月森の顔が近付き、そのままキスをされた。
好きだ、と思う。月森のことを好きだと、本当に心から思う。
「月森、好きだ…」
離れた唇が少し淋しくて、俺は月森へ腕を回しながらもう一度キスをした。