『音色のお茶会』
想いが重なるとき5
その余韻に惹かれるように、月森はヴァイオリンを持ったまま急いで練習室を出た。今、彼に逢わなければ。
月森は直感的にそう感じ、窓の向こうから聴こえたそのピアノの音色の持ち主を探すように、隣の練習室を覗いた。
探し人はすぐ隣の練習室のピアノの前に座っていた。土浦の姿を見つけた月森はノックもそこそこに扉を開けた。
「土浦…」
不意に開いた扉の音と、呼ばれた声に土浦は反射的に体を強張らせた。
「月、森…」
入ってきたその人物が、まさか来るとは思わなかった。
今、逢ってしまったら…。
土浦は頭の中が真っ白になったような錯覚に陥った。
月森は扉を開けたままの状態で、土浦はピアノの椅子に座ったままの状態で、それぞれ動けず、ただお互いを見ていた。
お互いを、意識して弾いていた直後なのだから、仕方ないのかもしれない。
「急に、すまない」
そんな状態の中、最初に行動を起こしたのは月森だった。
静かに扉を閉めると、ヴァイオリンを置き、ピアノの傍まで歩みを進めた。
近くも遠くもない距離で、またしばらくの沈黙が続いた。
大きなグランドピアノが、二人の距離を微妙に作っていた。
「さっきのピアノは、きみの演奏だろう」
いつもははっきりとものを言う月森にしては、少し言葉を選ぶように話し始めた。
「あぁ。それで、さっきのヴァイオリンはお前だよな」
土浦もなんと言っていいのかわからず、同じように聞き返した。
お互い、まさか練習室にいるとは思っていなかったので、それは確認に近い会話だった。本当はその音色で、わかってはいたことなのだけれど。
会話が始まってみればいつもと同じように話せることに二人は少しほっとした。
「予約表に名前がなかったから、まさかいるとは思ってなかったぜ」
一瞬だったけれど、土浦はちゃんと確認したはずだった。
「伴奏者の名前でとってあったんだ。本当は一緒に練習する予定だったのだが、急な都合でできなくなったからと言われて一人で練習していたところだった。きみも、予約表に名前がなかったと思ったが?」
それでも、ピアノの音色を探していた自分もいたけれど…。
「俺は日野に譲ってもらった。偶然だったが、やっぱり急用とかで」
「そうか…」
そこで会話が途切れ、しばらく沈黙が続いた。
「急に合わせてしまって…その、迷惑だっただろうか」
その沈黙を破って、話を再開させたのは月森だった。
自分の想いを自覚しているが故のその行動を、どう思われたか月森は気になっていた。
その言葉に、土浦は驚いた。
いつもえらそうに、上から人を見下ろすような物言いしかしない月森から、まさかそんな言葉が聞けるとは思わなかった。
めずらしいな、と言おうと思って、でも土浦は言えなかった。
その一言はいつもの言い合いの発端になる。でも今は、言い合いをしてはいけないと、何故かそんな気がした。
それに、合わせてしまったのは自分も同じだから。
「別に…」
でも、俺も合わせてしまった、とは言えなくて、土浦は視線をそらすように短く返事をした。
思えば、最初に月森のヴァイオリンに合わせて弾いたのは土浦のピアノの方なのだ。
「そうか…。よかった」
短く返されたその言葉に、月森は瞬間、何か心に引っかかるものを感じたものの、安堵したように言葉を続けた。
否定されたわけではない。気付かれたわけでも、ない。
「君のピアノに俺のヴァイオリンが合うとは思っていなかった。けれど君のピアノは俺にないものを気付かせてくれる」
答えは、その音色にあったのに。
月森のその声が思いがけず優しいように思えて、そらした視線を月森に戻せば、見たこともないような表情をしていて土浦の心臓は大きく跳ねた。
普段は無表情に近い月森が、少し照れたように微笑んでいる。
心臓に悪いって…。
土浦は心の中でつぶやいた。
「俺のピアノは伴奏向きじゃないけどな」
月森の言葉と表情に、顔が熱くなったように思った土浦は照れ隠しのようにまた視線をそらし、そうつぶやいた。
その言葉に、月森は小さく笑った。
「その技術の高さが伴奏に埋もれてしまってはもったいない」
伴奏に向いていないとは思わないが、伴奏では土浦自身の演奏が隠されてしまうように思えた。
土浦はそんな月森の言葉に、少々の驚きとともに更に顔に熱が上がっていくのを感じた。
こんな風に、月森が人をほめるなんて…。
「今でも感情に流された弾き方は好まないのだが…」
そこまで言って、月森は土浦から少し視線をずらし言いよどむ。
さっきの自分の演奏を振り返る。ヴァイオリンの音色を思い出す。
あれは、どんな感情で弾いていただろうか。ヴァイオリンに、感情を乗せていたのではなかっただろうか。
「だが、何だよ」
月森の相変わらずの言葉にそらした視線を戻し、土浦はつい、いつもの口調で聞き返していた。
いつもハッキリと言葉を発する月森が言葉を濁すことはめずらしいことだったが、土浦にはそのことに気付くよりも、いつも通り否定されているように感じたほうが強かった。
一瞬、分かり合えたのではないかと思いかけていたものが、勘違いだったと気付いて、後悔にも似た痛みを感じた。
そして、一人でピアノを弾いていた時を思い出す。痛いと感じた月森の視線。あの痛みとこれは同じものだ。
やっぱり、気付かなければよかったんだ…。
そんな想いが混ざる土浦の少し不機嫌そうないつもの視線を受けながら、月森も昼間の自分の演奏を思い出していた。
考えただけで、想っただけで、奏でる音色が変わった自分の演奏を。
「想いは、音色を変えるんだな。そんなことも気付いていなかった」
月森は自分の想いを更に確信していた。
自分の音を変えた存在。自分が想いを寄せる存在。
「楽しいとか悲しいとか、そういう感情とはまた違う、なんというのだろうか。感情で弾くのではなく、想いが音色に乗ると言うのだろうか…」
それでもはっきりと言葉にできなくて、月森は言いたい言葉を捜していた。
今まで、こんな風に人を想ったことがないから。自分のヴァイオリンに、気持ちを乗せようと思ったことは、一度もなかったから。
「月森…」
土浦もようやく、らしくない月森に気付く。
そらされた月森の表情はいつもの無表情からは考えられないような、さっき感じた声と同じように優しささえ感じ取れる。
そして、その言葉の意味を考える。その単語の意味を、考える。
今、なんて言った…?
瞬間、必死に隠していたものが、光の下にさらされるような、引きずり出されるような錯覚に陥る。
「土浦、俺は…」
ゆっくりと月森は土浦へと視線を戻した。
止めてしまった言葉の続きを捜すように気持ちを落ち着かせる。
もう、心に留めておくことはできない。あふれ出して、止まらなくなる。
今、伝えなければ。
「俺は土浦が好きだ」
音色に乗せた、この想いを込めて。