『音色のお茶会』
想いが重なるとき3
認めるべきだろうか。気のせいにしておくべきだろうか。
認められないかもしれない。
心はまだ迷っている。
けれど想いは向かい始めている。
たったひとりだけに…。
俺は自分の気持ちを認められずにいた。
気のせいだと、思い過ごしだと、そう思っていた。いや、思おうとしていた。
素直に認められるものでもない。けれどいくら目をそらしてみても、なかったことには出来なくなっていることも感じていた。
「ったく、どうしろっていうんだ」
わけもなくイライラして気持ちが落ち着かない。練習も進まない。曲に気持ちを乗せられない。
ピアノを弾けば弾くほど、気付きたくない気持ちに気付かされる。その気持ちを、曲に乗せそうになる。
気持ちのままに弾いてしまえたらと思いながらも、そんなことは出来ないとすぐに打ち消してしまう。
前にも進めず、かといって後戻りも出来ず、身動きが取れなくなっていた。
「それでも練習はしないとな…」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、俺は練習室へと足を運んだ。
「土浦君。これから練習?」
予約の確認をしようと表に目を向けた時、急に後ろから声をかけられた。
「うわ、日野か」
今は音楽科の校舎に来るだけで変な緊張感があるからか、ただ声をかけられただけで驚いてしまう。
そしてその声が日野だったことに、ちょっと安心した。
「土浦君が練習室にいるのってめずらしいよね。最近はあまり会わなかったし」
ピアノの練習は自宅できるから、わざわざ音楽科校舎にある練習室に来ることは少なかった。
「あぁ、そうだな。日野もこれから練習か?」
驚きやら緊張感やらを悟られないように俺はそう言った。
練習室を使おうと思ったことに深い意味はない。ただ、家で練習しても集中できなくて、だったら学校にいるほうが気持ちの整理ができるような気がした。
「うん、その予定だったんだけどね、急用が出来たから取り消しに来たところ。あれ、土浦君、予約入れていた訳じゃないんだ。よかったら使う?」
予約表を見た日野は、そう言って俺を振り返った。
「それは残念だったな…」
言いながら、急いで予約表の名前を見た。
「じゃあ、お言葉に甘えて使わせてもらうかな」
俺は名前がないことを確認してそう答えた。今は会いたくない、話したくない、その名前が。
一瞬それた俺の視線を追うように、日野は予約表を見て、そしてまた俺を見た。
「…………」
日野は何か言いたそうな顔をしている。何かに気付かれているような、見透かされているような、そんな感じ。
「しかし、セレクション前に用事とはついてないな」
その視線から逃れるように、日野が何か言い出さないうちに、話題が変わらないように、俺はとっさに口を開いた。
「…。ほんと、家に帰ったら練習できないのになぁ。お昼休みもあんまり練習できなかったのに」
一瞬の間があったものの、日野はいつもどおりの顔に戻っていた。
「お昼休みも練習室いっぱいなんだもん。仕方ないから屋上に行ったんだけどね…」
予約表に訂正を入れながらしゃべっていた日野は、そこまで言いかけて急に黙った。ペンの動きも止まっている。
「日野?」
声をかけると、ペンの動きが倍以上の速さで再開された。
そして書き終えて上がった視線が俺に合わさる前に、不自然にそらされた。
「ううん、なんでもない。それより土浦君は練習進んでる?って、仮にもライバルにこんなこと聞いちゃダメだよね。じゃ、私、用があるから!」
ごまかすように一気にしゃべったと思ったら、日野はヴァイオリンケースを抱えて慌てたように一歩下がった。
「おい、日野!」
「じゃあ、練習頑張ってね!」
俺の声に止まるでもなく、日野はそのまま逃げるように走っていってしまった。
「言いかけてやめられたら気になるじゃないか」
そう言ってみるものの、答えるべき本人の姿はもう見えなくなっていた。
仕方ないので、俺は日野が予約してあった練習室へと足を運んだ。さっきのことが少々気になるが、練習室を譲ってもらったことでチャラにしてやろうとも思った。
扉を開けようとして気付く。この練習室は、あの日使った練習室と同じ部屋だ。
窓から微かに聴こえてきたヴァイオリンの音色に、俺のピアノを合わせた場所。
あの日、窓を開けていなければ、ヴァイオリンの音色が聞こえてこなければ、そのヴァイオリンの音色に合わせようなんて思わなければ…。
気付くことは、なかったのだろうか。
そしてピアノを前にするとまた、思い出したくないような、なんともいえない気持ちになる。
「練習、進んで、ないよな」
ごまかすためだったのであろう日野の言葉が、今の俺には少し辛く思えた。
今の俺はただピアノを弾いているだけで、そこに何の気持ちも乗っていない。解釈すら考えていない。
弾きこなすことも必要だが、ただ弾くことだけが練習ではない。
今までは何を考えて弾いていたのかさえ、分からなくなりそうだった。
「答えを、出さなくちゃいけないのか…」
ピアノの蓋を開き、鍵盤に指を乗せる。頭の中を流れるヴァイオリンの音色。
俺は合わせて弾いたあの日のように、素直な気持ちで弾き始めた。
そして、気付いたあの日の、最初の音色を思い出しながら。
きっと、答えは出ているのだ。ただそれを、認めていないだけで。
音色は、ごく自然に響き渡った。聴き覚えのあるその音色は、けれど俺の気持ちの揺れを表すように、安定しなかった。
『……月森……』
あいつの名前を心がつぶやくと音色がまた変わる。
目をつぶると、感情の読めないすました顔と、冷たいとさえ思わせる瞳のあいつが目蓋に浮かんだ。
その視線が、何故か心に痛い。
いたたまれなくなって、俺は目を開けるのと同時に、強く鍵盤をたたいて演奏を止めた。
心臓が、痛いくらいにうるさいくなっていた。ピアノの音の余韻が、それに重なってさらにうるさく思えた。
この痛みで気付かされる。思い知らされる。抗えなくなる。
それでもまだ、否定しようとする自分もいる。
気持ちがせめぎあって、見えそうになる行き先から、背を向けようとしている。
「だから…っ」
だから、俺はなんとも想ってないんだ。
言いかけて、でもそれが言葉となって口から出ることはなかった。
もやもやした気持ちを振り払うために俺は窓を開けに立った。
少し強めの風が気持ちいい。けれど楽譜がバラバラとめくれる音がして俺はすぐにピアノに戻った。
しばらく楽譜を見つめ、気持ちを落ち着かせる。
「もう一度、弾いてみるか」
頭の中に、もう一度あのヴァイオリンの音色が響いた。