TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

背中合わせの未来4

「それにしても、ここはどっちなんだろうな」
 考えた同じタイミングで土浦はその疑問を口に出した。
「どっち、ということは、どちらかが入れ替わったということなのか」
 けれど俺が考えたこととは少し違うらしい。俺はそんな風には考えてもみなかった。
「そう考えるのが一番だろ。非現実的だが、実際、俺たちは違うみたいだしな」
 確かに信じられることではないが、この状況を説明するにはそう考えるのが一番なのかもしれない。
「それなら、自分たち以外で違うところを探せばいいということだな」
 そう言いながら周りを見渡してみたが、ここが練習室だということしか分からない。何か特徴的なことを憶えているわけでもなく、窓から見える木々も、それが違うのか同じなのかなど分からない。
 何か違うところはないかと視線を彷徨わせていると、さっき土浦が拾っていた楽譜が目に入った。
「これは君の楽譜か?」
 拾っただけで順番の揃っていないらしい楽譜を手に取ると、確かめるように土浦が覗いてくる。
 いまだに見慣れない音楽科の制服を着た土浦が、そうやってなんでもなく近付いてくる距離に、鼓動が早くなるのを感じた。
「ん?…あぁ、次のテストで弾く曲だ。ってことは、入れ替わったのは蓮のほうか」
 その距離が嫌なわけではない。けれど何か耐えられなくて、俺は土浦から視線を逸らした。
「あの鞄は?」
 逸らした視線の先に、置かれた鞄が見える。俺は何かを取り繕うかのようにその鞄を指差した。
「俺のだと思うけど…」
 そう言いながら離れていく土浦に、俺はほっとする。けれど、早まった鼓動はなかなか治まってはくれない。
 まるでまだそこに体温が残っているような、耳元に声が残っているような、そんな錯覚を覚える。
 鞄の中身を確かめるために歩いていく後ろ姿は制服が違う所為か、土浦ではないような気がして妙な淋しさを覚えた。
「この鞄は俺のじゃない。入れ替わったのは俺だったってことか」
 鞄を開け中身を確かめていた土浦が少し驚いたように振り返った。
 聞こえた声も目に映る顔も土浦のもので、俺はまた違う意味でほっとしてしまう。
 土浦の挙動ひとつひとつに、俺の心が掻き乱される。
「見覚えのない教科書が入っていた。ここの俺は普通科の生徒なんだな…」
 こちらへと戻ってくる土浦の表情が、何かを思い出したように少し険しくなった。
「普通科に入った理由は知っているのか…」
 その表情を隠すかのように俯いて、そのまま俺の脇を通り過ぎていく。
 俺は相変わらず治まらない鼓動を抱えたまま、振り返って土浦を視線で追った。
 土浦はピアノの前で止まり、鍵盤へと手を伸ばす。一音だけ、練習室に音色が響いた。
 その音に、飲み込まれそうなほどに感情的で、俺とは全く正反対な土浦の演奏が脳裏に浮かんだ。
「いや」
 俺の短い答えに、そうか、とだけつぶやくと、土浦は椅子へと腰を下ろした。ピアノを弾こうと思ったわけではないらしく、その手は鍵盤から離れていった。
 土浦が音楽から離れていた理由を俺は知らない。だから普通科に入った理由も知らない。
 音楽科に入った土浦には、その理由が思い当たるのだろうか。
 それを聞きたいと思い、けれどこの状況で聞いてはいけないような気もした。
 俯いたままでその表情をうかがい知ることは出来なかったが、土浦からはどこかその件には触れてほしくないような雰囲気も感じていた。
「思い当たる節はある。…聞きたいか?」
 それなのに土浦はそんな風にして聞いてくる。
 もし俺がここで聞いてしまったら、俺の知る土浦は俺を許しはしないだろう。
「それは俺が聞いていいことではないだろう」
 それに、もし聞くのなら、俺は土浦から直接聞きたい。今、俺の目の前にいる音楽科に進んだ土浦ではなく、普通科に進んだ土浦の口から。
 俺は土浦のことを知らなさ過ぎるのだと思う。だから俺はもっと、土浦のことを知りたいと思う。そして少しでもお互いを理解し合いたい。
「サンキュ、蓮」
 そう言って向けられた土浦の笑顔に、俺は少し悲しくなった。
 この笑顔は俺のものではない。その呼び名も、俺に向けられたものではない。
 土浦のことを知るだけではなく、土浦のその笑顔を俺に向けて欲しいと、そんな風に名前を呼んで欲しいと思うこの気持ちは、一体なんだろうか。
「うわっ」
 思わず土浦から目を逸らそうとした瞬間、そんな声とともに何かに驚いたように目をつぶった土浦が目の前から消えたような気がして、俺は思わず一歩近付いてその顔を覗き込んだ。
「どうした、土浦」
 ハッとしたように顔を上げた土浦は、数度の瞬きの後、俺へと視線を合わせてきた。
「…月森、か?」
 そして呼ばれたその名前に懐かしさを感じた。
「あぁ…、戻ったのだな」
 視界に映るジャケットの色が濃グレーであることに気付き、その懐かしさの理由が分かった。
「そう、らしいな…」
 さっきまで真っ直ぐに見つめてきた視線は、ゆっくりと、でも確実に逸らされていく。それが当たり前なことだと分かっていても、どこか淋しくも思ってしまう。
 けれど俺ではない俺を見ている視線を感じているよりはいいのかもしれない。
「君が戻ってきて、よかった」
 思わず俺は、そんな言葉をつぶやいていた。
「なに?」
 幸運にも聞こえなかったらしい土浦にそう聞き返されて、俺はなんと答えていいのか困ってしまう。
 その言葉に込められた本当の意味に、俺は初めて気が付いた。俺自身、言葉になるまでそんな気持ちには気付いていなかった。
「いや…」
 短い返事を返した俺に、逸らされていた土浦の視線が戻る。逸らし損ねた視線が、土浦の視線とぶつかる。
 高鳴るように、締め付けられるように、心臓が音を立てる。
「土浦、俺は……」
 言いかけて、けれど続く言葉を口に出せなくて言葉が止まる。
「いや、なんでもない」
 俺は、君が好きだ。
 続くはずだった言葉を俺はなかったことにしてしまう。
 言葉で伝えなければ伝わらないのだと気付いたばかりだというのに、俺はまた伝わらないのだと勝手に決め付けようとしている。本当に伝えなくてはいけない言葉は、本当に伝えたい言葉は、自分が伝えようとしなければ伝わらない。
 けれど今、その気持ちをそのまま伝えてもうまく伝わらないような気がする。変に誤解されてしまいそうで俺は躊躇してしまう。それでも何か伝えなくてはと焦れば焦るほど、言葉にならなくて黙り込んでしまう。
 そしていつものように、沈黙だけが続く。
 土浦が置きっぱなしの楽譜へと手を伸ばし、部屋の中に紙の音だけが微かに響く。
 俺はまるで止まってしまった時間の中に取り残されたように、楽譜をしまうために歩き出した土浦の後ろ姿をみつめていた。
 そんな静かな空間に鳴り響いたのは、下校を知らせるチャイムの音だった。
「もう、こんな時間か…」
 無意識につぶやいて、帰らなければいけない時間なのだと、そう気付いたら胸が痛くなった。
 その胸の痛みが俺の時間を動かし、焦っていた気持ちを冷静にさせた。
「土浦…」
 俺の呼びかけに、土浦はゆっくりと振り返る。
「俺には君のような演奏はできないし、する必要もないと思う。けれど、君の演奏が嫌いなわけではないんだ。君のことも…嫌いなわけじゃない」
 それはまだ真っ直ぐな言葉ではなかったかもしれないが、今の俺にとっては精一杯の言葉で伝えることが出来たと思う。
 土浦は驚いたように瞬きを繰り返しているだけで、何も言い返してこない。
 俺の言葉は、どう伝わったのだろうか。
「じゃあ、また」
 けれどそれを確かめることが今の俺には出来なくて、鞄とヴァイオリンケースを持ち直し、練習室を後にした。
 うまく伝わっていれば、これから先、俺と土浦の関係を変えていくことができるだろう。うまく伝わっていなかったのならば、俺はまた違う言葉で土浦に伝えればいい。
 そうやって、ひとつひとつお互いのことを理解していかれたらいいと思う。
 出会い方など関係ない。今からでも遅くない。俺たちはまだ出会ったばかりなのだから、ゆっくり理解し合えればいい。
 そしていつか、俺の隣に君の音色があることが当たり前になったときに、俺はこの気持ちをきちんと言葉にして伝えようと思う。
 俺は土浦が好きだ、と。


 共に奏でてみたい音色がある。
 今はまだお互い一人で弾いているけれど。
 いつか、きっと。



背中合わせの未来
2009.6.19
コルダ話43作目。
パラレルワールドなもしもシリーズの月&梁編です。
土&蓮編に比べると穏やかというかなんというか。
二人とも自覚したみたいですが、どうなるんでしょう…。