『音色のお茶会』
『parallel mind』 chance ~キッカケ~ R
それがただのはずみだったのかそれとも好機だったのかそれは今でもわからない
あの日の俺は、どうかしていたんじゃないかと今でも思う。
滅多に行かない練習室を、あの日は家に帰る時間を遅らせたくて時間つぶしに使っていた。
帰り間際、練習室の前であいつと日野に会った。
偶然という、そのタイミングの悪さが、何かの警告だったのかもしれない。
思わず言ってしまった帰りたくないという一言に、あいつは俺を家に誘ってきた。
急なことに少し戸惑ったが、理由は聞いてはこなかったからその真意は探れなかった。
断る理由がみつからなくて、あいつの家へ行った。
その部屋には、まるで音楽しか存在していないように思えた。
そこで奏でられるあいつの音色を聴きたくて、俺は何か一緒に曲を合わせてみたいと思った。
そう言うと、あいつはそれを断らなかった。
あいつのヴァイオリンに俺のピアノが重なる。
それとも、俺のピアノにあいつのヴァイオリンが重なったのか。
思いがけず綺麗に合わさった音色は、強い快楽にも似た陶酔感を俺にもたらした。
耳に残る余韻を感じながら顔を上げたその時、
ゆっくりと目を開けたあいつの視線と絡み合った。
無意識に立ち上がった俺に、あいつが一歩近づく。
気付いたときには唇が触れていた。
噛み付くような、貪るような、奪うような、
そのどれでもありそうで、どれでもないようなその行為。
表情の読めない瞳は、まるで射るような視線を向けてくる。
まるで熱を持たないかのような冷たい指が触れ、一言も発しない唇に俺の声は塞がれた。
思い出すあいつの表情から感情は何ひとつ読み取れなかったけれど。
まるで涙を拭うように瞼に触れてきた唇の温かさと、後悔とも悲しみともとれる瞳が忘れられない。
それから月森との奇妙な関係が始まった。
あの行為に何の意味があったのか。
俺とお前の関係は変わったのか。
何も、わからない。
お前はいつだって俺を見ていないし、その表情を変えはしない。
そのくせ、彼女に接するときはやわらかい笑みさえ見せる。
それでも俺はお前へと手を伸ばす。
その手が取られることは永遠にないとわかっていても…。
『parallel mind』 chance ~キッカケ~